
2016.1.10 宣教「聖徒の交わり」
2016年01月11日 09:02
聖書 ヨハネによる福音書17章1-19節
<中心聖句>
17節
「真理によって、彼らを聖なる者としてください。
あなたの御言葉は真理です。」
使徒信条は「聖なる公同の教会」に続けて、「聖徒の交わり」を信ず、と告白しています。聖徒というのは教会に連なる信徒のことです。
「聖」と言いますと、私たち日本人はすぐに「神聖」なもの、倫理的に汚れのないものを浮かべますが、聖書が「聖」という場合、神によって選び分かたれたものという意味を指しています。神に召し集められたもの、または神に属するもの、といっても良いと思います。この「聖徒の交わり」には「聖なるものによって作られる交わり」という意味があり、具体的には、洗礼と聖餐という聖礼典を意味します。
コリント人への手紙には、主の晩餐の制定が記されています。「パンが一つであるから、わたしたちは多くいても、一つのからだなのである。みんなの者が一つのパンを共にいただくからである。」(コリント10:17)には記されています。
使徒言行録には、しばしば初代教会において人々が「一緒に食事をした」(2:46)ことが記されています。この食事をするという日常的なことがらが重視されたことは、たいへん大きな意味を持っているのですが、キリスト教ではそれがさらに、いわゆる最後の晩餐と結びついて「主の晩餐」として決定的な意味をもつことになりました。プロテスタント教会では、これを「聖餐」と呼んで、「洗礼」と並ぶ聖礼典(サクラメント)として大切にしています。この聖餐はキリストが十字架の上で血を流されたことによって信じるものの罪が赦され、神との間に新しい契約が成立したことを覚え、キリストの交わりのしるしとして執り行われます。そして、この聖餐に共にあずかることによって、キリストにあって一つの群れであることを確かなものとするわけです。
「聖徒の交わり」は、もちろんそれは単に仲良しクラブというようなものではありません。交わりの中心に、あるいはその背後にキリストがおられることを信じている、そういう交わりのことです。教会に集まる人たちは、それぞれが違う賜物を持っています。教会ほど様々な違った人々が集まる場所というのは珍しいと思います。年齢の差、職業の違い、性別、様々な境遇の中にある方が集まっています。さらに様々なところで育ち、違った働きをしている人たちが集まって、神の言葉を聞く。教会というものの交わりというのは、キリストがその群れの中においでになることを信じているのです。
ヨハネによる福音書の13章には、主イエスが十字架につけられる前の夜に弟子たちと一緒に食事をなさいましたが、その食事が終わらないうちのようですが、突然立ち上がられまして、食事をしている弟子たちの足を洗われた記事が記されています。当時、このようなことは奴隷の仕事でした。そして、その後で主イエスは、「あなたがたの主であり師であるわたしがこうしたのだから、あなたがたもお互いに足を洗わ合わなければならない」(3:14)と語られました。ここに、この弟子たちに始まり、この弟子たちが、兄弟たちの足を洗うようになり、そこに初代教会が生まれてまいりました。
教会は、世俗的であり、汚れに満ちているのではないかと言われれば一言もないのです。世の汚れが教会の中にしみ込んでいる姿を見ざるをえません。だからこそ、使徒信条で「聖徒の交わりを信じる」と、私たちは信じて告白するのです。私たちは、聖さに生きています。神の子とならせていただいているのです。そのために主イエスが、私たちの足を洗ってくださいました。罪を洗ってくださったのです。そのために十字架について死んでくださったのです。
私たちは、この主を信じる者です。その主イエス・キリストの祈りによって私たちは支えられている。そのことを感謝を持って生きていきたいと思います。