2016.1.17 宣教「罪のゆるし」

2016年01月18日 09:05

聖書 コリントの信徒への手紙Ⅱ 5章16-21節

<中心聖句>
17節
「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、
            新しく創造された者なのです。」
 
 5章16節「それで、わたしたちは、今後だれをも肉に従ってしろうとはしません。」
この「肉による」というのは、神から離れた思いのことです。神から離れた知識であります。また「だれをも」という言葉の中に自分自身も入っています。自分自身の姿を見るときにも、神が見てくださるように自分を見る。そんなことが出来るのでしょうか。
 
 パウロは、そのことをすぐに説明するように、このように言っています。16節後半「肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません。」これは、今までのように知識でキリストを知ろうとするのでななく、神が教えてくださったような知り方でしか、イエス・キリストを知る道はないのだということなのです。
 
 17節「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」
キリストを知るということは、自分が新しくなっているのだということを知るということです。古いものは過ぎ去ってしまったのだということを知るということです。そして「すべてが新しくなった」のです。その新しさは、どこから来るのでしょうか。
 
 18節「これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。」
ここに出てくる「和解」とは、神との和解です。言葉を変えて言えば、「罪は消えている」ということです。それをみな神がなさってくださったのだということです。だから、罪の赦しを信じるのです。また、この「和解」と訳されている言葉は、「入れ替わる」という意味を持っています。つまり、和解というのは入れ替わることだというのです。何のためにかというと、私共の惨めさを、ご自分の惨めさとして、身に引き受けてくださる。「神が共にいてくださる」というのはそういうことです。
 
 私共は「人を愛しなさい」と言われているのに、憎しみに燃えてしまったり、人をうらんだりすることがあります。
そういうときに、「それでも」と付け加えて、「それでも、これでも、わたしは洗礼を受けている」と「こういうわたしだから、洗礼を受けている」と。わたしを捕らえているのは、キリストの恵みです。と宣言するのです。
 
 私共が忘れてはならないことは、私共がどのような中にあっても、神が私共を見つめておいでになる。ということです。神が私共の状況にしっかりと目をとめておられる。そうして神は今、私共に何が最も必要であるかということを私共に示そうとしておいでになるということです。私共の人生、生涯に神が与えてくださった多くの数々の恵みを数えることによって、この溢れるばかりの神の導き、神の力、神の哀れみを深く思い返して、この一年を神が導いてくださることを信じて、希望をもって生きていきたいと思います。
  
 
 
 
 
 
 
 

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