2016.10.2 宣教「さぁ、神に帰ろう」
聖書 ルカによる福音書15章11~32節
<中心聖句>
⒖:21
「お父さん、
わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。
もう息子と呼ばれる資格はありません。」
水元教会は1994年10月2日の聖日に、「水元・家の教会」がスタートいたしました。
当初は、斉藤牧師夫妻のみの礼拝もあったと聞いております。2004年に現在の以前パン屋さんであった場所を購入、2005年3月27日に、現在の教会堂で、多くの人に溢れ感謝と感動の中でイースター礼拝を持つことが出来ました。このような水元教会の原点を振り返り感謝を持って、これからも教会員と共にキリストの証人として励んで生きたいと思います。
今朝のテキストは大変有名です。この弟は、自分のもらった財産の全部を金に換えて、遠い国へ行きました。そこは豚を飼っているということですから、異邦人の世界のところへ行ったというのでしょう。「放蕩の限りを尽くして」と記しています。それは、もう救いようのない生活をしてということでしょう。その地方に飢饉が起こりました。息子も食べ物に困りましたが、食べ物をくれる人は誰もいなかったのです。
この放蕩息子のたとえの中で教えられることは、第一に人間の不安です。
金や者さえあれば生涯安泰であると考える人は多い。自分が生きたいように自分がやりたいように出来たら素晴らしい。しかし、結局、一文無しになって、初めて死の恐怖に襲われました。17節に「父のところでは、あんなに大勢の雇人に、有り余るほどのパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。」と記されています。
「このところ」とは神から離れたところです。この息子は神から離れたところから方向転換しました。彼はありもままの姿で父のところに帰って行ったのです。父は、この蒸庫を見つけると走って来て首を抱きしめて接吻しました。
25~30節は、兄の話になります。弟が帰って来て宴会が行われていることに起こった兄は、家に入ろうとはしません。父親が出てきて兄をなだめます。結局、父親は弟のためにも兄のためにも、自分から息子のところへ出てきました。兄は「何年も仕えて、一つも言いつけに背いたことはない」というのです。不平です。父親は、32節で「お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなったのに見つかった。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。」と言っています。この父親の喜びや行動は理解できないかもしれません。ここには、わたしたちを受け入れる父親の愚かさが描かれています。
この話の父親とは神のことであり、息子とは全世界の人間のことです。一人の息子は人生の苦難の中で、神のないところで生きて、そこで死んでいく人間の悲惨さにふれて神のもとに帰っていったのです。もう一人の息子は、確かにいつも父親のところにいました。しかし、その心の中には不平があり、弟を愛そうとはしません。
だれでも、わたしたちには価値はありません。しかし、神が価値のない者であるわたしたちを愛してくださるから、わたしたちは価値あるものになるのです。