2016.10.23 宣教「エマオ途上のイエス」
ルカによる福音書24章13-32節
<中心聖句>
24:32
「二人は、『道で話しておられるとき、
また聖書を説明してくださったとき、
わたしたちの心は燃えていたではないか』と語り合った。」
今朝のテキストには、あの有名なエマオの途上のキリストのことが記されています。十字架にかけられて死んだキリストは安息日1日は墓の中に休まれました。そして、翌日の朝キリストがよみがえったといううわさが町中に語られたのです。しかし、気落ちした二人は、沈んでいく夕日に向かって歩いていました。信頼し期待していたキリストの死に直面し、愛していた存在を失くしたのです。悲しみに満ちていたでしょう。
二人の弟子は過ぎ越しの祭りのとき、主イエスにお会いするために、エルサレムに行きました。そこで、まことに思いがけなくイエスの十字架の死に出会ったのです。しかも、それだけではなく、主イエスが復活したという知らせも聞きました。彼らは自分たちのエマオの村に帰って行く途中でした。17節「二人は暗い顔をして立ち止った」とあります。悲しみの顔です。この二人の弟子に近づいたキリストは、「歩きながら互いに語り合っているその話は、なんのことなのか」と尋ねられました。クレオパは、その同行者もまた、キリストの死から復活への道筋を語りながら、主が復活されたとの喜びがそこにないのです。
なぜ復活の事実をそのように聞き、語りながら、暗い思いになるのでしょうか。復活の信仰というのは、人間が様々な知恵を尽くしても、お墓が空であることを証明しても、何にもならないということです。キリストの復活は、今生きて働いておられるキリストにお会いすることによって、その道が開けてくるものです。復活の記事に共通するのは、復活のキリストから、いつも弟子たちに近づいてくださるということです。主イエスが復活の現実を証して下さるのです。顔も知らない旅人が、一緒に近づいてきたとき、18節「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか」一体何かと聞いたときは、彼らはあきれてしまったのです。主イエスはこの二人の弟子に聖書全体にわたって説き明してくださったのです。そのとき、二人の弟子の心が燃え始めてきました。やっと後になって気が付くほどに穏やかな燃え方をするのでした。かつて「暗い顔をして立ち止った」二人の弟子が、途中で道連れとなったキリストから、聖書の言葉を聞いているうちに、絶望的になっていた心が燃える経験をしたのでした。