2016.2.14 宣教「必要なことはただ一つ」

2016年02月14日 20:16

聖書 ルカによる福音書10章38~42節

<中心聖句>
42節
「必要なことはただ一つだけである。
    マリヤは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」
 
 「良いサマリヤ人」に続いてこの「マルタとマリヤ」の話が語られています。
 
 38節から「一行が歩いていくうち、イエスはある村にお入りになった」と書き始めています。マルタはイエス様の一行がこの村(ベタニアだろうと思われます)に入って来た時に、喜んで家に迎え入れました。マルタは自分の客を一生懸命にもてなしました。
 39節「彼女にはマリヤという姉妹がいた。マリヤは主の足元に座って、その話を聞き入っていた」この女性が、マルタの妹のマリヤです。
 40節「マルタは、いろいろのもてなしのためにせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。『主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください』」この時のマルタの心の中にあるのは、妹マリヤを非難するよりも、むしろ主イエスを非難する心でした。なぜ、黙っておられるのですか?
 
 何よりも主イエスに仕えなければならないと考えていたマルタにとって、自分がしていることは当然のことと思っています。しかし、私たちが自分の正しさに生きているときに、その正しさを確信して生きている時に、最も腹立たしいのは、自分の正しさが評価されていないことです。誰も自分の奉仕に気づいてくれない、妹だけでなく、主イエスも気づかない。わたしの心を思いやってくださらない。マルタは腹を立てるのでした。
 
 昔から、このマルタとマリヤの物語については、二つの人間のタイプを示されてきました。マリヤは、いわば芸術家肌の女性で家事もしない。すぐに何かに夢中になる、夢見るタイプの女性です。一方、マルタというのは世話女房型です。皆がマリヤのように主イエスの足元に座ってしまったら、誰も食事もできなくなる。マルタのような女性がいなければ成り立たない。祈ってばかりいてもだめだということになる。しかし、主イエスは、ここで、マルタをたしなめておられるのでもありません。マルタよ、あなたにはよいところはあるし、正しくもある。ただ言い過ぎてもいけない。とそのように言われたのでもありません。
 必要なことはただ一つ、マリヤはそれを選び、あなたはそれを選んでいない。
 
 三浦綾子さんの「氷点」という本があります。
 あの小説の中に大変印象的な場面があります。主人公の辻口啓造が、ある日曜日の朝、ふと教会に行ってみたくなって、聖書と讃美歌を風呂敷に包んで、町の教会の門まで行きながら、どうしても中に入る勇気が持てないで、また引き返してしまうのです。彼はそのように教会の中に入ることが出来なかったのですが、会堂の前の掲示板にその朝の説教の題が掲示されているのを読むのです。それは「なくてはならぬもの」という題でした。口語訳の聖書では「マルタよ、マルタよ、あなたは多くのことに心を配って、思い煩っている。しかし、無くてならぬものは多くない。いや一つだけである」と書いています。
 この言葉は、ひどく啓造の心を捕らえました。いったい、いまの自分の生活の中に「無くてならぬもの」と呼ぶことの出来るものが、何かあるだろうか、人生に無くてならないものとは何だろうか、彼は帰り道を歩きながら、そして家に帰ってからもそのことを考え続けるのでした。
 
 これは、小説の中の人物のことですが、実際、私たちは、なくてはならぬもの、と言えるようなものを持っているでしょうか。私たちは、あまりにも多くのものを持っていて、家の中にはそれが増えて置き場がなくなっています。多くのことに心配りをしています。そして、いろいろと取り越し苦労をしたり、後悔したりして、思い煩っているという現実ではないでしょうか。
 
 42節「主はお答えになった。『マルタよ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。』」
 私たちの人生にとって、本当に必要なもの、無くてはならないものは、イエスが言われるように、そんなに多くはないのかも知れません。だから、私たちはいつも、そのような人生の本当のよりどころについて、真実に考え、求めていくという生活を失ってはならないのではないでしょうか。
 
 
 
 

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