2016.2.28 宣教「神の熱情」

2016年02月29日 11:50

聖書  ホセア書11章1-9節

<中心聖句>
11章8節
「ああ、エフライムよ、お前を見捨てることができようか。」
 
 ホセアは紀元前8世紀の北イスラエル王国において登場した預言者であります。
当時、イスラエルの国は繁栄の時代であったが、神への背信は進みバアル礼拝が宮廷や神殿で公然と行われていました。大国アッシリアの軍事脅威が迫る中、国内は政治的陰謀と腐敗が宮廷にとどまらず、民の中にも詐欺行為や悪事が横行し、その結果、北イスラエルは滅亡へと突き進んでいきました。
 
 また、ホセアという預言者は、自らの家庭の悲劇を体験します。
ホセアは彼が愛したゴメルという名の乙女と結婚するように神から命じられます。しかし結婚後、ホセアはゴメルが彼をを裏切って多くの愛人を持ったことを知るのです。彼女は彼のもとを去ります。あるいは彼から追い出されたのかもしれません。しかし、主はホセアに3章1節で「行け、夫に愛されていながら姦淫する女を愛せよ。イスラエルの人々が他の神々に顔を向け、その干しぶどうの菓子を愛しても、主がなお彼らを愛されるように」 ホセアは奴隷の身分に堕ちたゴメルを家に連れ帰り、彼女と再婚するのです。のように、ホセア自身を教えさとして神の御心を理解させます。神はイスラエルを見捨てることができないのです。
 
 神が、イスラエルの民をモーセによってエジプトから救い出した時代を振り返らせます。荒野において導かれたイスラエルの民が、食べる物に窮して不平を述べた時は、夕べにはうずらを飛び来たらせ、朝にはマナを降らせて彼らを養われたのです。しかし、モーセがシナイ山において40日40夜、神の御前に立ち、神からの示しを受け、シナイ山を下ってくると、民は神の愛を無視してバアル礼拝に身をゆだねていたのであります。このように、ホセアは、バアル礼拝に傾斜する民の姿は罪悪の始まりと指摘するのです。
 
 私たちは、その時が長くなると、それに耐えられなくなります。もはや待つことが出来ない。じっと神の時を待つことをやめて、いつの間にか自分の時を神の時に換えてしまうのです。そこに神により頼むことを忘れ、偶像を拝むということが起こっていくのではないでしょうか。ここにイスラエルの民の反逆を明らかに記しながら、神がイスラエルの民をエジプトから導きだしたことを想起させ、同時に神の忍耐が記されているのです。
 
11章8節「ああ、エフライムよ お前を見捨てることができようか。」
と、神は敵の手に完全に渡してしまうことはできない、と言われる。これは、イスラエルの民が神の憐れみを受けるにふさわしい悔い改めをしたということではないのです。神の無条件の愛が理由になっています。
 
 罪深い者の心を変えるのは、神の愛を受けることです。神の愛を受けることによって新しい人に造りかえられるのです。
 新約聖書における神の愛は、キリストの十字架に示されています。父なる神は、アモスに示されたように激しく人間の罪を怒られ、そしてホセアに示されたように激しい熱愛をもって「独り子イエス・キリストを十字架につけて」なお人間の罪を赦そうとされる愛の神であります。
 
    
 
 
 
 

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