2016.2.7 宣教「神に感謝する」
2016年02月07日 20:29
聖書 フィリピへの信徒の手紙1章3-11節
<中心聖句>
1章3節
「わたしの神に感謝します」
この手紙は最初の3節に「わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し」という言葉が記されています。
わたしたちは、手紙を書く時に時候の挨拶を書きますが、すぐ、そのあとに「わたしは、わたしの神に感謝する」と書くことが出来るでしょうか。
また、もし、そのように書かれた手紙を現実に受け取ったらどうでしょうか。
その手紙の内容はどうであるにしても、それを書いた人の生活に心を打たれると思います。
ある意味で信仰生活をしている者には、それは当然のことのように考えるかも知れませんが、信仰生活には感謝がつきものだと言うような決まりきった考えからではなく、自分の生活を考えるとき、いつも、わたしはわたしの神に感謝します。と言えるような信仰を持っているでしょうか。
わたしたちは、人に対して幸福を祈り、神の祝福を祈り、神からの恵みと平和を祈ります。
そのとき、自分自身がそれを与えられていることと信じて、わたしの神に感謝すると言えなければならないのではないでしょうか。
この「感謝する」という訳は、信仰を告白する。という意味を同時に持つという学者もいます。(ギリシャ語の70人訳旧約聖書の詩編136編では、感謝する、とは訳さないで、告白する。となっているというのです。)したがって、信仰を告白することは、その神に感謝するという、両方が深い関係にあるということです。
わたしたちは本当にキリストにあるならば、どういうことにぶつかっても、どういうことがあっても、心のうちに深くキリストにおける感謝をもっていなければ」ならないのです。
しかし、現実の自分のうちには、いつも不満があるのではないでしょうか。つぶやきがあり、いらいらする、相手の気持ちを傷つけてしまう。
そのような時、わたしたちは、そういう不満の気持ちを、神の言葉を通して反省させられていきます。
神に自分の思いを告白し、わたしたちの心のうちに本当の神への感謝が満ちてきますと、わたしたちは他者に対して寛容であることが出来るのです。
もう一つ申し上げたいことは、それは、教会の中に、感謝と言う名前の行事があることです。
それは、聖餐のことです。英語ではときどきユーカリストと言います。これは、ギリシャ語で感謝するという字から出来ています。
主イエスが最後の晩餐をなさった時に、パンを取り上げて感謝され、祝福されたことから来ています。この聖餐式を行うということは、わたしたちの感謝の現れ方です。
わたしたちは、聖餐においてはどういう態度をとるべきでしょうか?
そこでは、わたしたちは、ただ沈黙して受けるだけです。感謝するとか、神をほめたたえるとか考えますが、ただ沈黙して受けるのです。神がお与えになったことに沈黙するというのは、それをそのまま受けるということなのです。
わたしたちの生活の中で、苦しい問題が起こってきても、どうしようかと思うような、そういうときにも、わたしたちは神様にしっかりと祈り、神と交わりを深くしていくときに、神がわたしたちのうちにあって、わたしたちを支えてくださるのです。