2016.3.13 宣教「一粒の麦」

2016年03月14日 06:26

聖書  ヨハネによる福音書12章20-26節

<中心聖句>
 
 
 今朝の中心聖句は、みなさんが暗礁聖句とされている方も多いと思いますが、聖書の中でも大変有名なことばです。
  一粒の麦・主イエスが死んでくださったから、私たちは信仰を言い表すことができたのです。主イエスは、他のところでも福音書の中で、麦についてよく語っておられます。麦のイメージの中で、主イエスはいつも生きておられた。ナザレの村の周りに麦畑があったのでしょう。麦が耕された土の中に落ちて行く。姿を隠してしまう。その種は見えなくなって、死んだとしか思えない。そして何もなくなってしまったかのように思われるところに、緑の芽が吹きだし、そこに捨てられたはずの一粒の麦が、この姿を変えて実っていく。もし、この一粒の麦が、この姿を維持して変えられるには嫌だ、ここで死んでしまうのは嫌だと、頑固に言い張って生きているつもりでいたならば、この実りはありません。
 
 「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」 このキリストの言葉は、人々には思いもかけない言葉であったに違いありません。
 「人の子が栄光を受ける時が来た」という言葉は、聞く人の心を奮い立たせ、希望を抱かせたでしょうが、続けて語られたこの言葉は、彼らを驚かせました。人々は「人の子」に、この世の勝利を期待していたのです。しかし、イエスは十字架による勝利者であることを明確にされたのです。
 
 信仰生活がいい加減なものになった時には、実はわたしたちは、主イエスの死を自分にとって無意味なものとしている時かもしれません。主イエスの死を無視しているのかもしれません 一粒の麦から生まれた実りである自分自身を無益なものとしているのです。
 
 それでは、25節の「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至る」とはどういうことでしょうか。
 これも一粒の麦についてのみ言葉としっかり結び合わされた言葉として覚えていきたいと思います。
 「憎む」というのは「愛」の反対です。その場合の愛とは「自分の命」を愛していることです。この自分への愛を拒否しなけれないけないと言われるのです。自分中心の生き方から、神に従い、神に仕える生き方への方向転換を求められているのです。そのようなことは自然に成し得ることでなくて、「自分の命を憎む」という強い決断なしには到底なしえないことと言うです。
 
 わたしたちは、教会生活が困難になる時があります。病気になったり、高齢になったりして、あるいは家族の中に病人がいたるすると教会生活が困難になる時があります。しかし、大切なことは、愛することを放り出して礼拝に来ることではなくて、いつも主イエスがいるところにいることです。いつも、キリストの後についているから、キリストのおられるところに共にいることが出来るのです。これは親子の関係に似ています。幼い子供は母親の手をしっかり握って放さない、幼い子供はそうしないと生きて行けないからです。わたしたちは、どのような時もキリストについていたい、一緒にいたいと願っていきたいと思います。
 
 一粒の麦から生まれた実りであるわたしたちは、どのような時にも、どのようなところにあっても、新たに命を得て、希望に向かって歩むことが出来るのではないでしょうか。
 
       
 

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