2016.3.27 宣教「復活の朝}
2016年03月28日 07:03
復活節第1主日礼拝
マルコによる福音書16章1-8節
<中心聖句>
16章7節
「かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる」
マルコによる福音書16章は8節で終わっています。9節から後もありますが、それはそういう写本もあるということであって、正確にはマルコは16章の8節で終わっています。一番最後の言葉が「恐ろしかったからである」という言葉で終わっているのです。 その前の記事には、墓にやって来た婦人たちは、皆、墓を出て逃げ去った、震え上がり、正気を失っていた、誰にも言わなかった、本当にびっくりしてしまったというのです。
とおり
クリスマスほどではありませんが、イースターも少し世間でも知られるようになりました。教会の人は、イースターは、救い主が復活したのですから、喜びに日としてお祝いをします。しかし、キリストの復活に出合った人が一番最初に経験したことは「恐ろしくてどうしようもなかった」ということでした。
話は大変単純です。婦人たちは何も予期しないで墓に行きました。その死体に油を塗ろうと思って油を買って用意した。墓に行く途中、墓の入口に大きな石が置いてあるのが見えました。とても女性の手におえない、誰に頼んだら良いだろうと考え、話しながら墓に行きました。行ってみたら、もうその石は取り除けてあり、すでに脇に転がしてありました。墓の中に入って見ると、白い衣を着た若い人がそこに座っている。しかも、その男の人が言うのに「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたよりも先にがリラやに行かれる。かねてから言われたとおり、そこでお目にかかれる』」と、そのように言われたのです。
この記事の、どこに恐ろしい表現があるのでしょうか。これだけのことで、この婦人たちは皆、逃げ去ったのです。
この婦人たちは心からキリストを愛していました。だから最後に死体でもいいから、油を塗って葬りたい、残っいて欲しいと思ったことでしょう。本来ならば、生き返ったと言われて、ああ良かった、嬉しかったとおもうところだと思いますが、ここに現実的でないことが起こってしまったのです。そのことを、どのように書いたらよいのか。ここでは、たた、からの墓を目撃したという事実だけを伝えています。
その点で、聖書は素朴で、神様がこうしましたという説明は一言も書かれていません。ただ、それは神の手がここに働いたことを信じないわけにはいかなかった。また、そのことに恐れたのです。
復活の朝、キリストがよみがえられたことに、私たちも驚いています。それは、死んだ者が生き返ったからです。キリストを通して、神が私たちの生活のうちに働かれたということです。私たちの理性では想像も出来ないことが起こった。その復活を信じて思うことは、神が働いておられるということです。