2016.3.6 宣教「天の父よ」

2016年03月07日 20:35

聖書    マタイによる福音書6章9-13節

<中心聖句>
6章9節
「天におられるわたしたちの父よ。」
 
 神が天におられるという思想は、旧約時代の人々が素朴に考えたことであったと思います。天が神のいる場所であるというのは、物理的に天を指しているのではなくて、それは神が「聖なる場所」にあるということではないでしょうか。
 
 では、この「聖なる場所」におられる神が、どうして、この汚れた世に住む私たちにとって「わたしの父」となってくださったのでしょうか。それは「天」の高きところにあるお方が、その高きところから、この世の最も低きところにまで、自らを低くなされたからであります。その神の愛が、キリストの降誕と十字架、それにつづく復活によって啓示されているのです。イエス・キリストを通して、その愛が現実化されたことによって、わたしたちは「父よ」と言って祈ることが赦されるのです。これは恵みです。
 
 「主の祈り」では「わたしたちの父」とあります。
 祈りというのは「あなたと私」の関係であって、徹底的に個人的な面を持っています。しかし、その「わが神」「わたしの神」は同時に、「全ての人の神」でもあります。「このわたし」が神にとってかけがえのない存在であるように、わたしたちの「隣人」もまた、神にとってかけがえのない存在です。それゆえ、「わたしたちの父」という複数の表現になっています。しかし、ほとんどの人の祈りが、自分のための祈りに終始していることがあります。他者のための祈り、苦しんでいる人たちのための執り成しの祈りは考えなかったという人もいます。
 
 パウロはエフェソの信徒への手紙6章18節で「どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願いを求め、すべての聖なる者のために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。」と記しています。「どのような時にも」ということは、文字通り休みなしに祈るということではなくて、私たちの心がいつも神と共にあるということなのです。
 
 しかし、現実には、わたしたちは時々祈りたくない場合が、祈れないと思うことが、あるのではないでしょうか。
 人間が生きるためには食欲が必要です。だから食欲がなくなるということは身体の危機を示しています。そのような時にも、食べやすいように、お粥にするとか何か工夫をしたりして努力をします。祈れないと思うときには、霊的に危機の時ですから、特に祈ることに努めるべきなのです。
 
 パウロは、ローマの信徒への手紙8章26節に「同様に“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきか知りませんが、“霊”自らが、言葉にならないうめきをもって執り成してくださるからです。」と記しています。聖霊が、この激しい「うめき」をもって、わたしたちのために執り成してくださっているのだから、私たちは自らくじけてはならないし、意気消沈してはならないのです。
 
 祈られていることが、わたしたちを支えてくれている。やはり背後で祈ってくださる人がいる。わたしを執り成してくださる方がいる。自分は一人ではない。また、わたしたちの祈りは独り言ではないのです。そこには、私たちの祈りに耳を傾けてくださる方がおられる。わたしの祈りを待ってくださっているのです。
 
     
 
 
 
 
 

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