2016.4.10 宣教「キリストに生きる」
2016年04月12日 10:59
聖書 コロサイの信徒への手紙3章1-11節
<中心聖句>
3章2節
「上にあるものを心に留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。」
昨年より、使徒信条について少しづつ学んでまいりまして、今朝、ご一緒に学ぶ使徒信条の言葉は、その最後になります。「永遠の命を信じる」という言葉です。
「永遠の命」とは何でしょうか。夜空にきらめく星は何光年、何億光年というかなたに存在しています。そこから光が地球に届くまでに何千年、何億年とかかるそうです。しかし、それが何億年であっても、それは有限の世界です。時間をどのように伸ばしても永遠にはなりません。永遠とは、時間の世界に属さないものです。したがって、人間が経験することの出来ない世界であり、それは、神と共にある世界と言っても良いと思います。 私たちは毎週、日曜日に礼拝を守っておりますが、この日の礼拝はこの日のものであり、今この一度限りのものであると同時に、この「とこしえ」永遠なるものに連なるものであると言い表わしているのです。
コロサイの3章1節には「さて、あなたがたはキリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。」2節には「上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。」とありますが、この「上」とはいったい何であるでしょうか。
3節以下では「あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。」また、4節には「あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。」とあります。
私たちが、「上」を仰いだ時に、私たちの命はキリストと共にあるというのです。
9節から10節にかけて「古き人をその行いと共に脱ぎ捨て・・・新しい人を身に着け・・・」とありますが、私たちが、洗礼を受けということは、キリストと共に死に、そしてよみがえったということです。だから、9節の最初に「互いにうそをついてはなりません。」と言っています。あなたがたは新しくなった。キリストと共によみがえったならば、あなたがたの口から、もう、うそは出なくなる。新しい着物を着たというしるしではないか、と言うのです。
信仰というのは、私たちが何かをつかむというより、神が私たちをつかんで離さない、ということを信じることです。それは、何かはかない望みにすがっているのではありません。パウロは、コリントの信徒への手紙第一13章12から13節で「わたしたちは、今は、、鏡におぼろに映ったものを見ている。だが、そのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。」と言っているのです。