2016.4.24 宣教「幸せな結婚」

2016年04月24日 17:10

聖書 創世記2章18-25節

<中心聖句>
 2章23節
 「ついに、これこそわたしの骨の骨、わたしの肉の肉。
    それをこそ、女と呼ぼう。まさに、男から取られたのだから。」
 
 男とは、ヘブライ語の「イッシュ」であり、女は「イッシャー」です。
「イッシュ」(男)から取ったのだから「イッシャー」(女)と呼ぶというのです。
「イッシュ」(男)とは、もともと「勇気ある者」「力に満ちた者」何があっても「微動だにしない」ものといういみがあり、いかにも男らしい、勇気に満ちた者のことです。「イッシャー」(女)とは「慰めるもの」の意味であると言われますが、この「男」の側にあって「慰め」「励ましていく者」が「女」であるというのです。
この相異なった二人が、「その父と母を離れて、一体となる」のが結婚です。人は「親と子」の関係の中で守られ、支えられて成長する。この関係を断ち切ることは出来ないように思われます。しかし、この「親と子」の関係を超えて、そこに新しい関係を形成するのが「結婚」です。
 
 さて、長い結婚生活を完成する道は何でしょうか。聖書を通して考えてみたいと思います。
 新約聖書のエフェソの信徒への手紙5章22-25節の「妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい。キリストが教会の頭であり、自らその体の救い主であるように、夫は妻の頭だからです。また、教会がキリストに仕えるように、妻もすべての面で夫に仕えるべきです。夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のためにご自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。」は、結婚式で必ず読まれる箇所です。また、28節の「そのように夫も、自分の体のように妻を愛さなくてはなりません。」という言葉も勧められます。
 
 この「妻たる者よ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい。」という言葉は、決して一方的な服従の要求ではありません。自らの自由意思で喜んで従い、仕えていくことです。それは、自発的に喜びをもって夫に仕え、ゆだねていく生活ですが、その基盤には、夫も「妻を、自分の体のように愛さねばならない」ということがあります。しかし、「自分の体」の痛みなら、どんなに小さな痛みでも鋭く意識しても、妻の体の痛みや苦悩はなかなか理解できるものではありません。自我(エゴ)が、夫と妻の間のあって頭をもたげてくるからです。
 
 こんなに愛してきたのに、とつぶやいたことによって、その愛が消えてしまうことがあります。愛することは、どれだけ愛しても、もうこれでよい、というものではありません。自らの愛の負債を自覚させられるものです。この愛の負債意識により、自らの足りなさが示されてくればくるほど、本当にすまなかったと心から「ざんげ」の思いになり、この愛の反省を通して、二人の愛は深まり、強められていくのではないでしょうか。
 
 「夫は妻の頭である」とは、時として非常に反発を招く言葉です。神の前には夫も妻も平等であり、夫の発言も妻の発言も共に重んじられるべきであるというのは言うまでもありません。が、これは神の、秩序を表明したものであって、家庭における夫の存在は、何か事が起こった時に毅然として対処することのできる存在であるということです。結婚生活には、時として思いがけない嵐に吹きまくられるような時があります。そのような時に、あわてず、感情的にならず、事態を冷静に処理するたくましさを持つのは夫である、というのです。妻にとっては、何か激しく揺さぶられるような時でも、最も信頼できる避難場所は夫である、ということです。
 
 聖書がはっきりと告げているのは、天地の創造者である神と、その独り子イエス・キリストの愛です。私たちの「結婚」は、神の深い配慮と導きによって与えられたものであります。真の愛のうちに共に歩む者として神と人に仕えて、長い結婚生活を完成して生きたいと思います。
 
  
 
 
 
 
 

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