2016.4.3 宣教「身体のよみがえり」
2016年04月04日 22:33
聖書 コリントの信徒への手紙第一15章35節~58節
<中心聖句>
15章38節
「神は、御心のままに、それに体を与え、一つ一つの種にそれぞれ体をお与えになります。」
年を取った方が自分の心境を語られる時、そこではどちらかというと、年老いる喜びが語られることは無く、むしろ自分の衰えていく体を歎くおもいがあります。これは自然のことです。
しかし、私たちが告白する使徒信条は「身体のよみがえり」を信じると言います。
人は死んだらおしまいという人という人もあり、人が死んだら体に触れることも嫌がったりする人もあります。
しかし、それは私たちの信仰に背くことだと思います。
創世記の1章1節~2節には、神がこの大地を形造られ、そこに人の命が創造されたということが記されています。肉体も魂も神から造られたものであって、それゆえに尊いのです。
今朝、読んでいただいたコリントの信徒への手紙第一は、パウロが、コリントの教会に宛てた手紙ですが、当時、教会の最初の頃に起こったいた問題は、グノーシス主義という考え方がでした。これは、霊肉二元論です。
自分という存在を造っているものに二つあって、肉体と霊、または身体と精神と呼んでもいい。この二つのものが結合して存在しているという考えると、非常にわかりやすい。しかし、肉体は、若い時は肉体に振り回され、年を取れば自分の思うように動かない。ですから、肉体は軽視して、霊的なものだけを重んじていくという考えたになっていく。そこで、霊は善で、肉は悪であると断定します。だから、この世界で価値があるのは霊的なものだけで肉的なものには何も価値が無いという考え方になってしまいました。
しかし、私たちの信仰は、そうではありません。肉体も魂も神から造られたものです。それゆえに尊ぶべきものです。
少し前の章ですが、6章19~20節で「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」とパウロは言っています。
パウロは、自分の力のすべてを注ぎだすようにして、主イエス・キリストのよみがえりが事実であることを書いています。そして、その主イエス・キリストのよみがえりを語った後で、身体について語り始めました。私たちの身体のよみがえりについて、ただ、私たちの今持っている体が、やがてそっくりそのまま姿を現して来るのではありません。
35節から書かれていることは「わたしたちの体は朽ちるものであるかもしれない。しかし、その朽ちるものを、朽ちないものが覆うのではないか。この朽ちるものを、造られた神が、霊のからだとして、新しくしてくださる」と、そのように語っているのです。
私たちが「身体のよみがえりを信じる」ということは、神の救いが、私たちの心も体も両面にわたって、全体に起こったということです。つまり私たちは神のものです。パウロは私たちの存在が神のものだということを大切にしました。だから、わたしたちは語ることに注意し、むしろ神の言葉を語り、詩と讃美を持って神への感謝の言葉を語るべきです。ですから、私たちは生きているときにも、死んでいくときにも、自分の身体を粗末にしてはいけません。いや、むしろその身体を、神が大切にしていてくださることに少しでも及ぶように努力をして、そのように生きること、それが信仰者としての生活ではないでしょうか。