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2016.5.29 宣教「復活のイエスの愛」
2016年05月30日 10:07
わたしたちは、自分はしっかりと生きていきたいと思い願うのですが、現実は迷いの道です。また、人間は一人で生きることが出来ない存在です。復活のイエスが共におられる。そのことを、わたしたちも生涯、どのようなことがあっても、忘れないでキリストに従って生きていくものでありたいと願います。
聖書 ヨハネによる福音書21章1-14節
<中心聖句>
21章14節
「イエスが死者の中から復活した後、
弟子たちに現れたのは、
これでもう三度目である。」
この前の章の20章19節では、イエスの弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分のいる家の戸に鍵をかけていたと記されています。
そこに復活のイエスが現れ「あなたがたに平和があるように」と祝福されました。しかし、トマスはそこにいなかった。それで20章25節「トマスは言った。あの方の手に釘の跡を見、この手をそのわき腹にいれてみなければ、わたしは決して信じない」と言い張りました。しかし、それから八日の後、復活のイエスは再び弟子たちに姿を現してくださったという記事があります。り、20章29節「イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないで信じる者は幸いである。」と疑り深いトマスにこのように言われたのでした。
さて、その後、復活のイエスに会った弟子たちは「よし、これから新しく発奮して生きていこう。イエスが命じられた通り伝道にわざに前進しよう。」としたのでしょうか。
21章1節「その夜、イエスはティベリウス湖畔で、また弟子たちにご自身を現された。」とあります。ティベリウス湖畔とは私たちが知っている言葉ですとガリラヤ湖のことです。彼らは故郷に帰って漁をしていたのです。2節の記事からペトロ・トマス・ナタナエル・ヤコブとヨハネ・そしてほかの二人の弟子と7名だったようです。弟子の代表格として登場するペトロは漁師でした。漁に行くというペトロに従って皆は船に乗り込みます。しかし、夜通し網を張ったが魚は一匹も取れなかった。
4節「既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。」8節の「陸から200ペキスばかり」とあるのは90メートルですので、目にいい人ならイエスだとわかったと思います。しかし、分かりませんでした。
5節「子たちよ、何か食べる物があるか。」と弟子たちに話しかけられました。
6節「船の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、ペトロは言葉に従いました。11節に「153匹」と漁獲量まで書いています。153という数字の意味は分かりませんが、弟子たちは夢中になって数えたのでしょう。ヨハネと思われる弟子が「あれは主だ」と言った途端に、ペトロは急いで上着を着て湖に飛び込みました。裸でイエス様の前には出にくかったのでしょう。
このヨハネの福音書が記された時代は、ローマに支配され、「主」という言葉はローマ皇帝に向かって使っていたのです。ですからキリストを「主」と告白することは命がけでした。やがて迫害が続く中で、人々は、魚の絵を描きました。ギリシャ語で、我らの救い主、イエス・キリストという頭文字を合わせると、魚という言葉になるのです。そしてその魚の絵を通して、我らはキリストを主と告白するという、そういう信仰に立っていったというのです。今日では考えもおよばないことですが、そうまでして信仰を守ることが出来たのは何故でしょうか。
13節には「弟子たちはもう誰も『あなたはどなたですか』と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。」とあります。
そこに復活のイエスがいてくださるのです。「子たちよ、何か食べる物はあるか。」と言って、共に食事をしてくださる主イエスが、そこにおられるのです。
わたしたちは、自分はしっかりと生きていきたいと思い願うのですが、現実は迷いの道です。また、人間は一人で生きることが出来ない存在です。復活のイエスが共におられる。そのことを、わたしたちも生涯、どのようなことがあっても、忘れないでキリストに従って生きていくものでありたいと願います。