2016.7.10  宣教「イエスの愛と死」

2016年07月10日 16:43

聖書 ヨハネによる福音書12章1-11節


<中心聖句>
12:7
「イエスは言われた。『この人のするままにさせておきなさい。
  わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。』」


  ここには、「過越しの祭りの6日前にイエスはベタニアに行かれた。」と書いています。それは、キリストが十字架にかかられる前であって、キリストを取り巻く人々の中に、特に祭司やパリサイ派の人たちは、いかにしてキリストを殺そうかと、その時をねらっている。そういう時であったのです。

 


 ここに、ラザロという男の名前が2回も出てきますが、エルサレムから3キロばかり離れたこのベタニアという町にラザロが住んでいました。前の11章38~44節には、ラザロはキリストによって生き返らせたと記されています。ラザロの復活は、エルサレム周辺の人々に大きなニュースとなっていました。この家に、ラザロの兄弟である、マルタとマリアという姉妹が一緒に住んでいたのです。
 姉のマルタは給仕をしていました。そして妹のマリアは、3節に「そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を1リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。」と記されていますように香油をイエスの足に塗り、そして自分の髪の毛でぬぐったのでした。人間の足というのは、もっとも下にあって一番汚れたところです。その一番汚れたところに高価な油を振りまき、自分の体の中でもっとも高い位置にある頭の髪の毛でこれを拭いたというわけです。
 ラザロがすでに死んでしまった時、マルタは主イエスに「あなたが、もしここにいてくださったならば。」とつぶやきました。(11:22)しかし、その後、主イエスに導かれて「あなたが世に来られるはずの神の子、メシアである」と信仰を言い表しました。そして、マリヤも、32節で主イエスに同じことを言いました。「あなたが、もしここにいてくださったならば。」と。


 そこには、他に多くの弟子が一緒にいました。イスカリオテのユダもいました。主イエスはユダを信頼して彼に財布を預けておられました。このイスカリオテのユダが、「なぜ、この油を300デナリオンで売って、貧しい人に施さなかったのか?」と言いました。300デナリオンというのは一人の労働者が一年間働いて与えれれる賃金です。ユダは世の中の不公平に耐えられない男だったのかもしれません。貧しい人が苦しんでいるのを見かねていたのかもしれません。
 ところが、6節に「彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。」と記しています。イエスの弟子でありながら盗みをしている。とは、どういうことなのでしょうか。ユダは本当は貧しい人々のことを心にかけていたのではなくて、自分の利益のためであったというのです。


 さて、マリアは、ユダから皆の前でひどく批判されて、恥ずかしい思いで体を小さくしていたことでしょう。
 ところが、キリストは7-8節でマリアの行為にたいして『この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。』と言われました。
 キリストは決して貧しい人々を無視してよいといわれたのではないのです。しかし、わたしは、今、ただ一度限りあなたがたのために救いを全うするために、神が命じられた愛の業をするために、死の中に置かれようとしている。キリストが十字架にかかって死に、そうして葬られていくことを弟子たちはまだ理解できなかったのです。しかし、それだからこそ、マリヤの行為は私の葬りのための備えなのだと、キリストは弟子たちに言われたのです。


 愛は打算を超えます。そろばんをはじいている間は、まだ愛ではないのです。
 愛という字は「心を受ける」という文字から成り立つと言われています。私たちは誰かを愛していくこと、自分が誰かに好意をもつとか、何かをしてあげる、そういうことが愛fだと考えます。しかし、愛とは「心を受ける」ということなのです。私たちが信じる前に、神の行動、神の愛の業があったのです。その愛を私たちは心に受けるのです。
 マリアが、ただキリストのために、ささげ、労したように、私たちも自分のためではなく、徹底的にキリストのために、この身、この心をささげて、この時を生きようという決意を新たにしていきたいと思うのです。


  


 


 





 


 

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