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2016.7.17 宣教「わが神、わが神」
聖書 マルコによる福音書15章33-41節
<中心聖句>
15:34
「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」
主イエス・キリストが十字架につけられた時、その十字架の上で語られたとされる言葉は、四福音書の中に7つ伝えられています。その中で、もっとも多くの人が覚えておられるのはルカによる福音書23節34節のみ言葉と思います。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているか知らないのです。」という言葉です。この言葉は、多くの人々の心を捕え、主の十字架の意味を明らかにする役割を果たしました。
さて、今朝のテキストの マルコによる福音書では、34節「エロイ、エロイ、レマ、サバクダニ」、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」という言葉です。
キリストの周りには、35節には「そばに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」という者がいた」、36節「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう。」と、このようにまったく見当違いの者や、からかったり、嘲笑っている人々が大勢いたと記されているのです。
また、33節では「昼の12時になると、全治は暗くなり、それが3時まで続いた」と記されています。どうして突然全地が暗くなったのでしょう。
私たちキリスト者にとって、キリストの十字架は救いです。ですから、どうして闇が覆ってくるのだと思うかもしれません。しかし神がいなくなるということは、死の支配、闇の支配だけだということです。
39節に、ローマの百人隊長のだれも予想もしない言葉が記されています。この百人隊長は多分まだ信じていなかった人だろうと思いますが、この主イエスの叫びを聞いて、そのお姿を見て「本当に、この人は神の子だった」と、語ったのでです。 これは、著者マルコが最も伝えたかった重要な言葉だったのではないかと思います。なぜなら、マルコは、この福音書の第1章1節で「神の子イエス・キリストの福音の初め」と書き始めました。つまり、何よりも、神の子としてのイエス・キリストのことでると明確にしている、そこに、この福音書を書く目的があったのです。
イエスは神に見捨てられた。神に捨てられた者としての死を、ここで味わっておられます。それは、私たちと同じ人間となられたということです。
「もし、あなたがその十字架の上から降りることが出来たら、わたしはあなたを信じよう。」と、これは非常に大きな誘惑です。キリストを信じて生きている人間は、神の愛と恵みの内に置かれているはずだ。そういう人がどうして、苦しみに遭うのか。こういうことが一つの課題になります。しかし、神を信仰しているから、私たちの人生に一切の苦難もなく不幸もないととするならば、そういう生涯を送る人だけが神の恵みに生きているということなのでしょうか。イエス・キリストという方は、神への信頼と服従の人生でした。そして十字架の道に至るまで忠実でした。
38節には「神殿の垂れ幕が上から下まで、まっ二つに避けた」と記されています。神殿の垂れ幕は、幕のこちらと幕の向こうを仕切るものです。言い換えるならば、神の側と人間の側とを仕切るものです。今までは大祭司だけが入ることが出来たところに、どのような罪人であっても、この幕の中に入っていくことが出来るようになったのです。