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2016.7.24 宣教「明日ことを思い悩むな」
聖書 マタイによる福音書6章25-34節
<中心聖句>
6:33
「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。」
人間は思い悩む者です。しかし、この「思い悩む」のは、どこから来るのかと言いますと、それは、どうにもならないことをくよくよ考えることです。どうにもならないことを、自分でどうにかなるようにと自分で「思い悩む」ことです。そして、困ることに、多くの場合、悪い方に、悪い方へと考えてしまうのです。
そういう私たちに対して、主イエスは、ここで「思い悩むな」と繰り返し語っておられます。26節の「空の鳥を見なさい。種を蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなた方の天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか」の言葉は、多くの人を慰めてきました。神の無条件のお守りがあることに気づかされるからです。しかし、主イエスは、私たち人間に、この世の苦労も知らず、神が面倒を見てくださるから、あくせく働らなくてよいと言っているのではありません。そうではなくて、人間の存在そのものの値打ちは、神の前においてどんなに尊いものであるかということを教えておられるのです。
「野の花」は、全く神によって造られ、人の手が加わっていません。ソロモンの全盛時代でも、ソロモンの着ていたものは、この花に及ばなかったとおっしゃるのです。ソロモンがその富を集め絶大な力を得ても、野の花の前にいかに貧弱であったかということです。そのことを考えてみますと、それは、人の力と神の力の違いです。野の花は、ただ神に委ねているだけです。ですから、神のことを忘れて、ひたすら自分の力で何とかしようとする人間の「思い悩み」は、愚かなことだと言うのです。
信仰がある人も、ない人も「何を食べるか」「何を飲むか」「何を着るか」ということは求めるものですが、ただ、信仰のある人は、そのために「思い悩む」ことはしないということです。33節に「何よりもまず、神の国と神の儀を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」とあります。
「何よりまず」ということは「まず第一に」ということです。ここにすべてを解決する道があるということです。神の国を求める時に、私たちが頭の中で、神様、神様と言っていればよいという、そういうこととは、もちろん違います。それは、私たちの全存在を神様に委ねて生きるということです。そこから、「明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日、自らが思い悩む。その日の苦労はその日だけで充分である。」と、言われるのです。
「明日のことまで思い悩むな」と言われるには根拠があります。今日とか、明日とかという人間の持つ時間は、人間のものではなく神のものなのです。今日を支配し、明日を導き給うのは、神ご自身です。そういう信仰に立つ時、今日の苦しみの中で、なお明日の希望を持つことが出来るのです。