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2016.7.3 宣教「逆風の中で」
聖書 マルコによる福音書6章45~52節
<中心聖句>
6:48
「逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て、
夜が明けたころ、湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、
そばを通り過ぎようとされた。」
私たちは、生活が順風満帆で快適に暮らしていると時は、いつも神様がいてくださるような気がするかもしれませんが、ちょっとでも人につまずいたりしますと、すっかり落ち込んでしまします。家族の中で何か起こると、神様なんかおられないのではないかと思いはじめてしまう。神が見えなくなるというのは、信仰を持たない人のことではありません。信仰をもっている人の問題なのです。なぜ、信仰者でありながら、逆風の中で立ちすくむよりほかにないことが起こるのでしょうか。
45節に「イエスは弟子たちを強いて船に乗せ、」とあります。ここで「強いて」とは自分の定めに従って生きるという心を現しているのではないでしょうか。この定めに従って生きる思いがあります。
私たちのために、祈り、励まされる主イエスが、逆風のために漕ぎ悩んでいる中にあった弟子たちへの救いのために、湖を踏み越えておいでになったのは、48節「世が明けるころ」であったと聖書は記しています。ここに信仰の忍耐が求められてはいないでしょうか。神様の応答が性急に求められるとき、私たちは、しばしば信仰のつまずきを覚えます。しかし、いつまでも開けることのない闇はありません。おそくとも「夜明け」という救いの時があるのです。
49節には「弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、大声で叫んだ。」とあります。幽霊は実在しないものです。弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられる姿を見ながら、ここには存在しないものだと思ったのです。その姿を見ながら、イエスは存在しないものだと考えている。不信仰とはそういうものです。そこでイエスは、すぐに、50節「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」と声をかけてくださったのです。弟子たちの恐れを取り去ってくださったのです。
そこで、マルコは注釈を加えました。
51節「イエスが船にお乗りになって風が静まり、弟子たちは心の中で非常に驚いた。」なぜかと言いますと、52節「パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたからです」パンの出来事という奇跡を体験しながら、その最も大切な意味を理解することが出来なかったからと記しています。
いつもは熱心な信仰をもっていた弟子たちが、逆風に行き悩んで、その一瞬、神様の姿が見えなくなったというのは、本当はまだ主イエスという方を正しく知らなかったのではないでしょうか。