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2016.7.31 宣教「生ける水、わが主に汲む」
聖書 ヨハネによる福音書4章1-26節
<中心聖句>
4:6
「そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。」
3章22節から読みますと、主イエスは人々の無理解と敵意に追われて、ご自分の故郷であるガリラヤに戻って伝ふぉうをなそろうとされていた様子がうかがえます。しかし、ユダヤ人とサマリヤ人との間には、お互いに交わることのない歴史的理由(旧約聖書の列王記下17章)があり、ユダヤ人は遠回りをしてもサマリヤの血を通らないのが常識であったようです。
さて、しかし、4章には、ユダヤを去ってガリラヤへの旅の途中、主イエスがサマリアを通り、この井戸の側日来られた。と記しています。時は、お昼の12時頃であった。弟子たちは障子の用意のために町に出かけて行った。周囲には人影も見当たりません。そこへ、一人のサマリアの女性が人目を避けるように水を汲むためにやって来たのです。
イエスは、7節「水を飲ませてください」と声をかけられた。
9節「すると、サマリアの女は、『ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか。』と言った。」と記されています。
村から遠いこの井戸まで、誰一人通らない熱い正午ごろに、わざわざ水を汲みにやってくる女性には、他の人と顔を合わせたくない理由があったのです。そのことをイエスは知っておられたのです。そして、この問題を心の内に持つ女性に対して「水を飲ませてください」とイエスの方から話しかけてくださったのです。
何かを得たい、何かを自らを支えるものがなければ、生きていけない。今の生活の孤独さ、そういった寂しさを、この女性はもっていたのではないでしょうか。
井戸の水を中心として対話が交わされているときに、イエスは「この水」を「わたしが与える水」み話題を変えていかれたのです。 14節「わたしの与える水を飲む者は決して乾かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至るに水が湧き出る」ことを言われるのです。
この「生ける水」とは一体何を意味しているでしょうか? 新鮮な良い水のことでしょうか。それよりも水よりももっと尊いもの、それは何か? この人は一体わたしに何を与えようとしているのか? 女性は今までに感じたことのない新しい問題にぶつかって、迷いつつ、しかし、イエスの言葉にひきつけられていくのです。
5人の夫をもつこの女性が「夫はありません」とごまかしても、イエスは16節「行って、あなたの夫をここに読んで来なさい。」といわれるキリスト、それは女性と夫が共にキリストの前に出ることを期待されている。夫を呼ぶことを求めたイエスの真意は、女性がけではなく夫も共に主の恵みにあずかることが出来るようにと願われたのではないでしょうか。
真昼のパレスチナの正午ごろの太陽は、文字通り焼けつくすような暑さでしょう。この暑さの中で、飢え、乾き、疲れておられるはずのキリストは、それらを忘れてひたすらに一人の魂を救いに導かれる。相手がいかなる状況であっても、キリストは飢えを忘れ、渇きを忘れ、疲れを忘れて、この一人の女性をここまで愛されるのです。この愛が、この女性を新しい人に造りかえられていくのです。それは彼女だけではなく、たぶん彼女の夫までも、キリストの救いにあずかることが出来たのでなないかと思うのです。