2016.8.21 宣教「愛の業」
聖書 マタイによる福音書25章31-46節
<中心聖句>
25:40
「はっきり言っておく。
わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、
わたしにしてくれたことなのである。」
今朝のテキストのたとえは、有名なトルストイのお話し『愛あるところに神あり』、あるいは『靴屋のマルティン』の終わりの部分に引用された聖句として有名です。
また、このマタイによる福音書23章から25章までは、主イエスの最後の教えとしての御言葉が記されている箇所であります。
従って、これは地上における主イエスの説教の最後であり、その結びであって、その総括です。ですから、主イエスが何を大切になさったか、主がこれまでひたすら教えてこられたこのと中心がどこであったかを、私たちに教えてくださる御言葉です。
32-33節「そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊を山羊(ヤギ)をわけるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。」ここで、主イエスが語っておられるのは、「世の終わり」のことです。世の終わりの時に人間の歴史を問われることは、人間の小さな小さなわざです。
では、羊とヤギとが分けられる決め手とは何でしょうか。
40節には「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人」に「飢えているときに食べさせ、のどが渇いた時に飲ませ、旅をしているときに宿を貸し、裸であったときに着せ、病気の時に見舞いに行き、獄中にいた時に訪ねてくれた」その愛の業が、救いと滅びの分かれ目になるということです。
しかし、ヤギたちの言い分について見ていきますと、44節「『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、乾いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられるのを見て、お世話しなかったでしょうか。』」そんなつまらないわざをくどくど論じる気にはなれないのです。もっと大きな行いならメモに書き留めておくが・・・もしキリストが困っておられたら、左のヤギも一肌脱ぐ気概はもっていたのです。キリストなら払ってもいい犠牲や奉仕を、他者には出し惜しみする点で、彼らは「ヤギ」でした。
「最も小さい」他者に、奉仕した人は、その打算のない愛のゆえに、右に選ばれたのです。
では、「最も小さい者」とは信仰のあるなしに関係なく、本当に苦しんでいる人、困っている人だということはわかりますが、何に比べて小さいのでしょうか。おそらく私たちと比べて、かわいそうだと思う。みじめだと思う。そういう理解でよいのでしょうか。
ここで、主イエスは本当に小さい者は私たちであることに気づかれているのです。「小さい」とは弱さです。私たちが神の助けなしには生きて行けない「小さい者」であるということです。
この後すぐに、第26章からは、主イエスの十字架への道が始まります。