2016.8.28 「世の光」
聖書 マタイによる福音書5章13-16節
<中心聖句>
5:16
「人々が、あなたがたの立派な行いを見て、
あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」
14節の「あなたがたは世の光である。」と後に、「山の上にある町は、隠れることができない。」とあるのは、どういう意味でしょうか。
「世の光」と「山の上の町」と何の関係があるのでしょうか。その後15節には「また、ともし火をともして升の下に置く者はいない」とあります。これは、光というのは隠すべきものではなくて、それによって、すべてのものを照らし出すべきものであると書いているように、「山の上の町は、どこからでも見える」ということを表すために書いたものです。その解釈は、「山の上の町」が誰にでも見られるように、キリストを信じる者の生活も、だれにでも見られるはずであるというのです。
わたしたちの日常の生活の中で、キリスト教の信仰を持っているということが分かると、少し特別な目で見られることがあるかもしれません。そのため、信仰を持っていることを、人に知られたくないような気持が、わたしたちの心の中にあるのではないでしょうか。
しかし、主イエスは、信仰をもっているなら、山の上の町のように、誰にでも知られるはずではないか、と言われるのです。この原始教会のキリスト者の中にも、信者であることを隠そうとした人もいたのかもしれません。
わたしたちは、光に歩む者として、すべてのものを照らすべきであるとは、あまり考えなかったことかもしれません。照らすということは、人々に光を与えるということです。 光を与えると言っても、わたしたち自身に光があるわけでなありません。わたしたちは、ただ神の光を受けて、それをもって、人々を照らすだけです。ちょうど、月や星は、自らは光を持ちません。太陽の光を受けて、初めて照り輝くことしか出来ません。しかし、神は、その業を与えられたのです。わたしたちも、毎週日曜日に教会に着て、聖書を通して神の言葉を聞きます。それは、自分の生涯が、すでに神様に選ばれ、召し出され、祝福されているのです。
わたしたちが、仕事のこと、家族のこと、子どものこと、健康のこと、就職のこと、自分の将来のことで思い悩む時があっても、神は光としてその道を示してくださるのです。
わたしたちが、自分から光を照らすものではないことはとく知っています。ですから、光の出てくるところを見てもらいたいのです。まだ、キリストの光を知らない人たちに光の源である神を見てほしいのです。そのために、わたしたちはこの世に遣わされているのです。