2016.8.7 宣教「平和があるように」

2016年08月08日 06:23

聖書 ヨハネによる福音書20章24-29節

<中心聖句>

 20:26

「イエスが来て真ん中に立ち、

        『あなたがたに平和があるように」と言われた。」

 

 安息日の翌日、主がよみがえられた日に弟子たちはユダヤ人を恐れて一つの家に集まっていました。そして、戸口に鍵をかけていました。そこにイエス様が姿を現してくださったことが19章に記されています。 しかし、そこにトマスはいなかった。なぜ、トマスだけがそこにいなかったのかは記されていませんが、トマスはイエス様を8日の間、待たなければならなかったのです。

 

 24節「12人の一人でディディモと呼ばれるトマス」と書き始められています。ディディモとは双子いう意味ですが、双子のもう一人の方は記されていません。しかし、誰もがトマスを双子の一人としてみていたことがわかります。

 このトマスという人物は11章にも登場します。イエスが、ユダヤ人たちの敵意に満ちているエルサレムに近い所へ行こうとされる時、11章16節に「すると、ディディモと呼べれるトマスが、仲間の弟子たちに、『わたしたちも行って、一緒に死のうではないか』と言った。」と記されているのです。トマスは死の恐怖を敏感に感じたのです。

さらに、もう一か所は、14章です。最後の夕食を取られた主イエスは、こう言われました。1節「心を騒がせるな。かみを信じなさい。そして、わたしを信じなさい。」と励まされて、4節「わたしがどこへ行くのか。その道をあなたがたは知っている。」すると、トマスが正直に、5節で「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」ほかの弟子たちも、同じ思いであっても黙っていたのかもしれません。

 5節「イエスは言われた。『わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。』」この主イエスの御言葉は多くの人を生かす御言葉となりました。トマスが何でも聞きたがったおかげでもあります。そのトマスが、復活された主イエス・キリストとの出会いを逃したのです。トマスはとても不安だったと思います。

 

 また、一週間がたった安息日の翌日に、弟子たちは一つ所に集まっていました。戸に鍵をかけて・・・必ずイエス様は来られる。弟子たちは、こうして鍵をかけて待っていたらイエス様が来られのだと話しあっていたのではないでしょうか。トマスも待っていました。

 

 そして主イエスが来られて、真ん中に立ち「あなたがたに平和があるように」と言われました。

 これは、恐れを取り除くための御言葉です。27節「それから、トマスに言われた。そして、『あなたの指をここに当ててt、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。』」と。

 主イエスは身を低くしてトマスに語られたと思います。トマスの疑り深さを決して軽んじてはおられません。そうではなくて、あなたの信仰のない心を信仰に満ちた心に換えなさい。わたしが変えてあげようと、主イエスはご自分の姿をトマスに現されたのです。この時、トマスは実際にイエスの体に障ったかどうかは記されていません。福音書では触って信じたとは書いていません。触ることはもう問題ではなくなったと考えることが出来ます。

 

 トマスは「わたしの主、わたしの神よ」と言いました。29節「イエスはトマスに言われた。『わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は幸いである。』」と。ここで、主イエスはただ肉体のない霊的な不確かな存在として、よみがえられたのではなくて、からだをもってよみがえられたことを示してくださったのです。このからだを持った主イエスを見たことは、トマスにとって幸いなことでした。

 

 29節「イエスはトマスに言われた。『わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。』」と。

 これは、山上の説教にある「心の貧しい人たちは幸いである。」「悲しむ人々は、幸いである」「柔和な人々たちは幸いである」と同じように、祝福の言葉です。見ないで信じることができる人は、祝福されていると、主イエスはわたしたちに言われています。

 

   

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