2016.9.18 宣教「献げるものの感謝」
聖書 「マルコによる福音書12章38-44節」
<中心聖句>
「皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活を全部入れたからである。」
38節で「律法学者に気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回る」ことを批判されています。わたしたちはこのような経験をすることがありませんので、自分には関係のない話だと思ってしまいます。主イエスは、律法学者が犯している過ちを問題にしています。「人一倍厳しい裁きを受けることになる」と主イエスが言われるほどの過ちは、「見せかけの」というように、自分の偽りの姿を正当化することを言い表すことです。神様に仕える律法学者が、やもめの家を食い物にする。一方、41節「イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた」、主イエスは神殿で、やもめの献げたレプトン銅貨2枚を見ておられた。主イエスは私共の礼拝をじっと見ておられる。献げものをすることを主のまなざしの中で、するものです。他人の目の中で、なされることはないということです。律法学者が人のまなざしを恐れて歩き回る姿と対比がここに現れています。このやもめは生活費を全部入れたと言います。生活費全部とは、彼女にとって生活、命そのものをささげたということです。やもめにとって神に対する信頼を、そこに献げたことを明らかにしたのです。やもめは神を愛しました。神を信頼することは、こういうことだということを見せてれています。献金は、有り余る物の中から人に与えたりすることが献金だと思うことに過ちであることに気づくことです。主イエスは金額は問われていません。問われているのは神にささげる神への恵みと感謝です。どんなささやかな献げものをも、私どもの感謝と神への応答がそこにあるとき、主イエスは喜んで受け入れてくださると信じるものです。