2016.9.4 宣教「神の御心に従う」
聖書 ペトロの手紙第一 4章1-6節
<中心聖句>
4:2
「もはや人間の欲望にではなく神の御心に従って
肉における残りの生涯を生きるようになるためです。」
使徒ペトロは、キリストの第一の直弟子と言われています。キリストと共に生活をし、キリストの言葉を直接に聞き、そしてイエス・キリストの十字架を目の当たりに見、さらにキリストの空の墓を見た人でした。そのペトロが書いた手紙となっていますが、この手紙の5章12節には「わたしは、忠実な僕シルワノによって、あなたがたにこのように短く手紙を書き」とわざわざ記してありますことを見ますと、ペテロ自身が自筆で書いたというよりも、ペテロが書きたいと思っていたことを、シルワノに書かせたと考えられます。
また、宛先は1:1に「ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアの各地に離散して仮住まいをしている選ばれた人たちへ」となっているように、かなり広い地域に離散してる人たちへ送った手紙と思われます。
キリストを知って新しくされたということが、まわりの人から奇異に感じられることがあります。今まで同じ考えで過ごしてきた人々にとっては、偶像礼拝、また不品行な生活に加わることをしなくなった変化において不審に思えるのでしょう。そのことを避けたことに憤慨し、キリスト者を批判し、ののしり侮辱するときがあります。
しかし、キリストによって罪とのかかわりを絶った者の残りの生き方は、以前のように自分の肉的な欲望を満足させるようなことに使うのではなく、神の御心に従って生きる者になるために使うのだとペトロは言っています。
キリストによって新しくされるとは、自分という人間の価値を本当に知ったということではないでしょうか。ですから、神の前に自分の生活を大切にし、神の御心に従って歩むとき、人からののしられることや、中傷されることは、それほど気にならないのではないでしょうか。
6節では、「神との関係で、霊において生きるようになるためなのです」とあります。しかし、人が生きるということは、「肉における生涯を生きる」のですから、罪を犯しながらいきているようなものかもしれません。ですから、それは私たちに理想的な生き方を強いているのではないのです。霊において生きるとは、自分の力、自分で救いを獲得するこというのでは決してないのです。
わたしたちが、立派になっとか何か資格を持ったとかいうのではなくて、キリストの十字架の赦しのもとに生きる信仰者は、誰でも新しく神との関係の中で生きる者とされたのですから。一人一人が自らの欲望を捨て、霊により神の御心に従って歩む者とならせていただけるように、日々祈りつつ歩みたいと思うのです。