25/8/24     [真理の霊なる弁護者」 ヨハネ福音書16:1-15

 

 1節の「つまづかせる」の意味は、故意に信仰から離れさせ、主の救いから漏れるように取り計うことで、弟子たちに、主の証人になることを怖れさせ、ためらわさせ、曲がった方向へと向かわせることです。そうした臆病風に吹かされぬよう、主は弟子たち自身が証しするのではなく「真理の霊」が証しされるのだと説かれました。

 2節の「会堂から追放する」とは、ユダヤ人の生活共同体から締め出して、社会的に生きられなくすることです。それほど、律法の遵守が救いへの至上命令と信じていたユダヤ人たちにとって、キリストの教えは逆らい立つものであり、それを完膚無きまでに叩き潰すことこそ、神に全きに仕える道であることを信じて疑わなかったのです。そうした迫害の先峰を切っていたユダヤ人こそ、かつてサウロと呼ばれていたパウロその人でありました。

 そうした中で、主の死の預言が告げ知らされた弟子たちは、悲しみ、うな垂れたに相違ありませんが、7節の「実を言うと、わたしが去っていくのは、あなたがたのためになる」との主の御声に、一斉に顔を上げたことでしょう。続いて、主が送られる「真理の弁護者(聖霊)」の御働きが、三つ語られてゆきました。

 一つ目は、御子イエスを信じないという罪を悟らせること。二つ目は、主イエス・キリストによる義(救い)を確信させること。三つ目は、最期の裁きについて明らかにすること。そして、そこには記されていない四つ目の聖霊の御働きは、自己の罪を深く内省させ、悔悟させること。しかもそれは、キリストの十字架以外では拭い切れない大罪であるということを知らしめること、です。

 しばしば人は、他人には告げられぬような人生の難問、課題に突き当たり、考え抜き、悩み抜き、解決を探し尽くし、試し尽くして・・限界に達し、疲労感と絶望が生じます。ですが、そうして、もうどうにもならない極みに達したとき、突如、目の前がパーッと開けてまいります。聖霊の働かれる場が展開してくるのです。今までの難問に対する答えが、電光のごとく閃いて、美しく整われた神の解決に至るのです。それは、人の裡に働かれる聖霊の御業であられます。主が重ねて告げて来られた「自分の命を懸ける愛の行使」という業も、まさにそのような御業と言えましょう。

 すべてのことは、神から発し、神によって成らしめて頂くことですが、このことを、神に帰すること、即ち、神の御業として証してゆくことこそが、私たちキリスト者に課せられた、最も大切な使命と言えましょう。 

 

 

25/8/10    「初めから主と共に」 ヨハネ福音書 15:18-27

 

 この福音書の時代背景は、キリスト者が、ローマ帝国及びユダヤ教徒による四面楚歌の様相を呈し、唯々上を見上げなければ一歩も進めぬ状況にありました。よって、この福音書の特徴は、例えば18、19節のように「憎む」という表現を用いて、白黒、善悪を際立たせることにより、キリスト者としてのアイデンティティ(独自性・同一性)や孤高性を鼓舞する意図が大いにありました。

 また、19節のユダヤ教徒たちによる迫害は、彼らも昼夜、御父なるヤハウェを拝み崇めていながら、その御父が主イエス様を遣わされた御当人とは「知らぬ」ゆえの所業でありました。この「知らぬ」というのは、単に無知ということではなく、頑なで「知ろうとしない、受け入れようとしない」という罪を孕む言葉であり、これをテキストでは、「主を憎んでいる」とも表現しています。

 これまでは、この世と主ないしキリスト者との関係は、この世から謂われなき迫害や攻撃を受ける立場でありました。ですが、26節からは、真理の霊なる聖霊の御働きにより、今度はキリスト者が、世に向かって証しをする立場が描かれ、ストローク(働きかけ)の矢印が逆となります。

 27節の「初めからわたしと一緒にいた」という「初め」とは、地の創造以前のことで、そのときから、キリスト者は主と共にずっと在ったと考えられます。それゆえ、二千年も前の十字架刑による主の贖いの御業を、主の死後の復活を、御父と御子の霊なる聖霊の降臨を、すべて真実のこととして、この自分のこととして、今、信じることが出来るのです、誰に強制されたわけでもなく・・これは一種の奇跡でありましょう。

 そして私たちは、元々主を「知っている」という特典の中にいるからこそ、「主を証しする」という責任を帯びています。この「証し」は自力で絞り出すものではなく、聖霊が私たちの口を通して、雄弁に大胆に語らせてくださるのです。苦悩が恵みに、嘆きが賛美に変えられた、人生の大逆転が語られるところでは、主が今生きて、働いておられる証しが炸裂致します。また、それは言葉でなくとも、私たちキリストの生き方や考え方そのものが、立派な主への証しとなるのです。

25/8/3 「 友のため、命を捨てる」 ヨハネ福音書 15:11-17

 

 これまで主が、弟子たちに何度も繰り返し告げられた、12節の「互いに愛し合いなさい」は、13節の「友のため、自分の命を捨てること、これ以上の大きな愛はない。」に至って、その真髄、究極に達します。

 「友のため、自分の命を捨てる」とは、「イスラエルの救いのためならば、自分が神に呪われた者となってもよい」というパウロや、「同胞の救いのためならば、神の書(命の書)から自分の名が消されても構いません」というモーセの、命懸けの執り成しを想起致します。また、キリスト教の大迫害時代の多くの殉教者たちが、自分の命を捨てでも主への信仰を貫いたのは、キリスト教を継承してゆく未来の″友”、即ち、私たちキリスト者のためでありました。更に「友のため、命を捨てる」とは、かけがえのない大切なもの=自分が命とも思って握りしめている有形ないし無形のものを、その友にために、手放す、捨て去る、差し出すことをも、含意致します。

 私たちにとってのそうした「友」とは、主は誰を指しておられるのでしょう? 14節で「わたしの命ずることを行うならば」との条件下、「互いに愛し合いなさい」との号令下に、教会に集められる兄姉たちも、所謂気の合うお仲間や、無条件に愛せる血縁者ばかりではありません。けれども、教会の兄姉は、他人同士の緩い集合体に見えましても、根幹の主イエス・キリストによって堅くひとつに結ばれている集合体であって、御国の門までひとつとなって歩んでゆく生命体の塊です。ゆえに、そうした私たちが「互いに愛し合う」のは、ごくごく自然な行為で、自分を愛し、イエス様を愛することとイコールなのです。

 16節の「選びと任命」は、「出かけて行って実を結び、その実が残るように」という、伝道の行いと、そのアフターケアを伴うものです。そして、「互いに愛し合う」という主の掟は、「願うものは何でも与えられる」という御約束とワンセットになられています。それゆえ、「命を捨てる愛」は大きな痛みを伴いますが、それにも増して余りある大きな祝福を、主は「”友”なる私たち」に御用意くださっておられるのです。

 

25/7/27 「唯一の救い主(第一戒)」出エジプト記19:3-9,20:1-3 

 

 私たちは、主の十字架の下で震えを覚えるように、モーセが授与した十の御言の前に震えを覚えなければなりません。それは、十戒の全てが、ロマ書8章の「私たちすべてのために、その御子をさえ惜しまずに死に渡された御方は、御子と一緒にすべてのものを私たちに賜らないはずがありましょうか」という、人知を超えた御愛に満ちておられるからです。十戒を遵守する者に主は、「私の宝」「祭司の王国」「聖なる国民」という最高の栄誉を約束されています。

 第一戒「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」は、ヘブル語直訳では「あなたが、わたしの面前に、神々を置くことなどありえない!」となります。「神々」とは偶像だけでなく、御使いをも指し、天使礼拝は堅く禁じられている一つです。また偶像は「あなたの宝のあるところにあなたの心もある」と言われているもので、最も堅固で難儀な偶像は「自分自身の“腹”」でありましょう。

 偶像は、「エジプトの国」「奴隷の家」に象徴され、当初は、解放感や自由、満足を与えてくれるように誘いますが、やがて虜にされていることに気付いたときには、抜け出せなくなっています。十戒の導入部は、現実的な状況を突き抜け、改めて認識させるのです、私たちは多少苦しくとも「唯一の救い主」なる主の御前に立ち続けることを選ぶか、虚しい偶像に帰依して、最終的に奴隷の身分に縛られ続けるか、を・・・。

 ソドムを主が滅ぼそうとされた時、アブラハムは執り成しを願い出、主との問答の末、主は宣言されました。「その十人のために、わたしは滅ぼさない」と。この御言は、水元教会の礼拝を守るお一人一人が、この水元の町を始めとする地域一帯の救いのための「正しき十人」であるという宣言にほかなりません。

25/7/20 「主はまことのぶどうの木」 ヨハネ福音書15:1-10

 1節で「わたしはまことのぶどうの木」と宣言される主は、続いて「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな(農夫である)父が取り除かれる。」と述べられ、そこから御父は、怖ろしい裁き主であられるとの先入観が横行しています。

 敢て「先入観」と申しますのは、ぶどうの栽培方法をパソコン検索しますと、いきなり「実を結ばない枝はみな取り除く」という乱暴な工程はなく、むしろ結実のためには、葉の光合成が十分行われるように配慮することが大切で、実がついていないが葉が茂っている枝にも大切な役割があることが記されているからです。例えば、うどん粉病に罹った葉と枝は、丁寧に水で洗ったのち、支柱などを立てて十分日光に当て、風通しがよいように茂った葉を刈り、高く掲げるのです。すると、豊かな結実が与えられるとのことです。

 それは語彙の面からも、「取り除く:アイロー」という動詞には、その訳の上位に「掲げる」という意味があり、1節は「農夫なる御父が(結実のため日光や風が十分当たるよう)高く掲げられる」との訳が、主の御心に適っていると考えられるのです。

 1節は、主に繋がっていながら、実を結ばない信仰者の譬えでしたが、6節は、主に全くつながっていない者の話で、「火に投じる」というのは、裁きの座において、はっきりと右と左へと分けられる様が示されています。ですから、9節において主は「わたしの愛にとどまりなさい」と告げられるのです。この御言は単なる命令ではあられず、「わたしがあなたがたをこれほどまでに愛してきたのだから、あなたがたは、わたしの愛に包まれ、わたしにとどまっていてよいのだよ」という御赦しの御言であられましょう。また、この「とどまる;メノー」という言葉は「待つ、待ち続ける」との意味も擁し、再臨の主を待望するという意味を含意します。

 主の御愛にそのように包まれるにあたって、守るべき掟はやはり「互いに愛し合いなさい」ということであります。1:18で「父のふところにおられる独り子」という関係のお二人の神様は、その境目が分からないほどに、密接な愛の関係を保っておられます。そして私たちも、主とそのような関係を入ることを主は強く望んでおられるのです。

 ぶどうの木なる主とつながっていることこそ、その枝なる私たちのライフラインであり、主にこの世に遣わされて生きてゆく、私たち其々のこよなき意味と目的がそこから発信され、充実した働きのための聖霊の満たしも、そこから注がれてゆくのです。

25/7/13 主はあなたと共に住む」 ヨハネ福音書 14:15-31

 14節の主の御言「わたしを愛しているならば、わたしの掟を守るはず」の『掟』とは、13:34-35で示された「互いに愛し合いなさい」との主からの御命令です。その御心の背景として主は、21節で、御父の中に御子、御子の中にキリスト者という三重の円環を描かれ、キリスト者は、御父と御子とから発せられる聖霊に、大切に守護され、愛されている「特別な存在」であることを知らしめられました。

 イスカリオテのユダではないユダ(小ヤコブの子タダイ)の「私たちには御自身をあらわそうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、なぜでしょうか」という問いに対し、主のお答えは、主を愛する人(主の御言を守る人)と、主を愛さない者(主の御言を守らない者)とを区別されているとのことで、前者は、御父とイエス様と共に住む「天国の住人」にして頂ける光栄に浴するのでありますから、この区別は実に重大なのです。

    26節の「聖霊は・・わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」の「思い起こす;ヒュポミムネースコー」とは、「意識の上に呼び覚まされる」という使役の意味を持ちます。かつて主が語られていたことと、今、現実に起こっている事柄とがピタッと重なった時に生ずる、驚きを伴う心の動きで、すべては、弁護者なる聖霊の特別な働きによるものです。

 更に、27節で主がもたらされる『平和』とは、この世の平和とは異なり、キリストが共におられる霊的な世界の様です。キリストが御父と共に住まいを設けられ、永遠に共に住んでくださるという至福の世界・・この平和の世界は、主との確実な御約束に伴う平和、父なる神様との和解に基づく平和であります。

 30節で、ここにサタンが再登場してくる兆しの中、主は唯お一人、世の支配者を自称するサタンに立ち向かえる御方、かつ、サタンを逆に用いることのできる立場の御方として、確かに立っておられます。ですから主は、私たちをサタンから守り、真の平和をくださることがお出来になるのです。

 31節にて主は私たちに3つのことを促されます。「知れ」「立て」「行け」と。これらは、教会の礼拝式順に当てはめますと、①招き・悔い改め、②祈り・賛美・証し、③派遣・献身、への促しに相当します。はっきり申せば、神そして自分を知ることは怖いこと、今の一見安定した立場から立ち上がることも怖いこと、更に、行方も知らずに進み行くことはもっと怖いことです。でもそこに、主の御心、主の御愛、主の御臨在がありありとあられれば、心騒がせず、不安にならず、主の御許へ歩みゆくことが適います。

 そうです! 礼拝とはかような冒険への主の促しです、私たちのために十字架と復活を成し遂げられ、私たちに天国での共生を約束される偉大なる主を主人公とするドラマへの参加です、毎主日の礼拝は、言わば大それた挑戦であり、天国の前味わいの時なのです。かような礼拝に招かれ導かれ、心からの賛美と悔い砕かれた心とを主にお捧げするに至った私たちは、真から心が震えて来るではありませんか!


 

25/7/6 「道・真理・命」 ヨハネ福音書14;1-14

 開口一喝「心を騒がせるな!」は、主御自身の内面が掻き立てられた状況で、何度か用いられてきた御言です。13:33で「わたしが行くところに、あなたたちは来ることが出来ない」と告げられた主は、弟子たちの動揺を、まるで手に取るよう理解された上で、この御命令を力強い御励ましとして下されました。「心騒がせずに、さあ、今こそ信仰に立つ時である。」と。

 2節の「住むところ」とは、天上で弟子ないしキリスト者が主と共に宿る所を指し、主はその御用意のために天に昇られると言われますが、それは「住居」の御準備よりむしろ、そこへ迎え入れられる「住人」を、御父と共に選択されるためであられましょう。

 「主よ、どこへ行かれるのですか? その道は?」と問いかけるトマスに、主は「わたしが道、真理、命である。」と並列されます。それは、「このわたしが、真理を辿る唯一の道であり、かつ、永遠の命へと至る唯一の道である。」とも解せられます。

 「真理」を端的に定義するのは難しいですが、神学者ブルトマンは「主イェスの中に神御自身を啓示して、出来事に成りつつある神の現実性そのもの」と、「真理」とは、神概念や神そのものではなく、″進行中の神の出来事”だと語るのです。つまり、人類の救いの御計画、十字架の贖い・貴い犠牲とか、父なる神との和解・神の義の授与とか、究極の御愛・執り成し(の祈り)とか、御子キリストの降臨・現臨・再臨・・そうした私たちの知りうる神の出来事をすべて網羅して「真理」と解せるということでしょう。さすれば、「わたしイェスへの信仰を通してでなければ、天の御父の御許へ行くことは、決してできない」ことに繋がります。

 8節の使徒フィリポの「御父を示してください。」との申し出に、ため息をつかれた態のイェス様は、くどいほどに「私が父の内にあり、父がわたしの内におられる」ことを繰り返されますが、その中にも「真理」の内実が語られています。そして、主は14節でこう告げられます。「わたしの名によって何かを願うならば、(御父の中にいる)わたしがかなえてあげよう。」と。道・真理・命なるイエス様と、そのイエス様の内におられる御父とも、霊的に結ばれている素晴らしい御証しとして・・。   ハレルヤ!

 
 

宣教

2022年11月27日 06:42

2022.11.27 宣教「御言葉による冒険」

聖書 ルカによる福音書19章28-40節  29節で、イエスが子ロバを必要としているので二人の弟子が使いに出されました。弟子たちにとって、驚くべき経験となったのは、34節の主の言葉を自分の口で伝えたことです。それは「主がお入り用なのです」という言葉です。二人の弟子は、そんなイエスの言葉通りに行くのだろうかと思っていたのではないでしょうか。そして主イエスの言葉通りに進んで行くことに、弟子たちは驚いたと思います。この不思議な体験は、弟子たちの存在の中に根を下ろしていったのではないでしょうか。私たちが人生を生きる時、最も大切なものは「イエスが私の主である」ということです。私たち自身がキリストのものと
2022年11月15日 04:51

2022.11.20 宣教「主の恵みの宝」

聖書 ルカによる福音書19章11-27節  この主イエスのたとえ話は、主人が留守をするので10人の僕にそれぞれ「一ムナ」ずつを与えたというのです。主人の留守の間に働いた僕の話ですが、一ムナというのは現在のお金に換算すると100万円に相当するお金です。僕はその与えられたお金「一ムナ」を活かすか活かさないか心を働かせなければなりませんでした。問題は与えられた金額が多いか少ないかではなく、この僕たちの周囲の状況でした。12節で「ある立派な家柄の人が、王の位を受けて帰るために、遠い国へ旅立つことになった」のです。ところが14節に「しかし、国民は彼を憎んでいたので、後から使者を送り、『我々はこの人を王に
2022年11月13日 05:37

2022.11.13 宣教「人間失格と新生」

聖書 ルカによる福音書19章1-10節  今朝のテキストは「ザアカイの物語」です。9節「イエスは言われた。『今日、救いがこの家に訪れた。』」と、このザアカイが主イエスを自分の家に迎えることが出来たいきさつを、ルカは書いています。ルカが、ザアカイという名を出して表現したことにより、この物語は教会ではよく知られ、愛されている物語の一つになりました。主イエスがザアカイの家に行ったことについて、7節「これを見た人たちは皆つぶやいた。『あの人は罪深い男のところに行って宿をとった』」と書かれています。ザアカイは徴税人の頭でした。ローマ帝国の手先となってユダヤ人から税金を搾り取る仕事をし、その上、不正な取り
2022年11月06日 17:17

2022.11.6 宣教「ここに神の愛がある」

聖書 ヨハネの手紙第一4章7-12節  今朝は永眠者記念礼拝です。先に天に召された11名の方々を覚えて共に礼拝を捧げます。 キリスト教では「神は愛である」と言います。それは、私たちの人生の中で具体的にどういうことかと言いますと、7節「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。」と語りかけています。真実に生きる者は、自分のためにだけ生きるのではありません。他者のために何ができるかを考えて、神からの力を与えられて生きる者です。9節で「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。」と答えています。神の愛とは、
2022年10月30日 15:42

2022.10.30 宣教「信仰による救い」

聖書 ルカによる福音書18章35-43節  このテキストに出て来る盲人の名前はバルティマイであると、マルコによる福音書10章46節には書いています。おそらく、この盲人は長い間、道端に座り続けてきたと思われます。そこへナザレのイエスがやって来ると言うニュースが入って来ました。主イエスが来られても、バルティマイは見ることは出来ません。しかし、彼は心を躍らせ、主イエスを心待ちにしていました。バルティマイは、わたしは主イエスを見るのだと信じていたのです。遂にイエスが近づいてくる足音を聞きました。そこで、38節「彼は、『ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫んだ。」のです。40節「イエスは立
2022年10月23日 05:12

2022.10.23 宣教「十字架の告白」

聖書 ルカによる福音書18章31-34節  この18章31~34節の中で、主イエスは御自分がこれからどのような定めにもとに、またどのような出来事に遭うかということを語られました。同じ予告を9章21-22節と9章44節でされていますので、これは三度目の最後の予告となります。しかし、33節「彼らは人の子を、鞭打ってから殺す。そして、人の子は三日目に復活する」という言葉の意味が、34節「十二人はこれらのことが何も分からなかった」のです。主イエスの言葉の深い意味は弟子たちには理解されませんでした。なぜでしょうか。31節の前、18~30節で「金持ちの議員」の物語があります。金持ちで若くして名誉もあり地位
2022年10月17日 16:46

2022.10.16 宣教「水元に在る神の教会」

聖書 使徒言行録11章19-30節 本日は、小林誠治牧師をお迎えしての特別伝道礼拝です。小林先生は67年にわたり牧師として伝道されてきました。先生にとって人生の転換期は、先生が中学生の時の終戦だったそうです。今朝の使徒言行録11章にはアンティオケアの教会でイエスの使徒達が人々から始めてキリスト者(クリスチャン)と呼ばれたと記されているのですが、小林先生はご自身の様々な経験を通して一節ずつわかりやすく解き明かしてくださいました。ぜひ、ぜひ「礼拝案内」をクリックしてライブ配信をご覧ください(*^-^*)
2022年10月09日 18:03

2022.10.9 宣教「欠けているもの一つある」

聖書 ルカによる福音書18章18-30節  18節に「ある議員がイエスに、『善い先生、何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか』と尋ねた」とあります。ある議員とは、当時のユダヤ人社会の最高の会議である最高法院の議員を意味すると理解されています。この議員は23節に「大変な金持ちだった」とあります。しかし、この結末は、主イエスの言われたとおりにすることができなくて悲しんでそこを立ち去っていきます。この男は、信仰者としての生活もしています。しかし、何か一つ自分に欠けているものがあることに気づいています。それは、永遠の命を受け継いでいるとは信じられないということです。死を超えて生き
2022年10月02日 07:15

2022.10.2 宣教「幼児とキリスト」

聖書 ルカによる福音書18章15‐17節  水元教会は1994年10月2日の日曜日から西水元二丁目の斎藤宏牧師の自宅を開放されて伝道を開始しました。その10年後、現在のこの水元二丁目に移転して、2005年3月27日のイースター礼拝が行われました。28年の教会の歴史を支え、守られた神の恵みに感謝いたします。 今朝はルカ福音書18章15節から17節を学びます。15節に「イエスに触れていただくために、人々は乳飲み子までも連れて来た。」のですが、ところが「弟子たちは、これを見て叱った。」とあります。弟子たちにとって、主イエスの話はファリサイ派の人々さえも打ち負かすほど難しく気高い話であり、このようなと
2022年09月25日 05:27

2022.9.25 宣教「祈りの確信」

聖書 ルカによる福音書18章1-14節  信仰生活を全うするために大事なことは祈ることです。神を信じていると言いながら祈ることがないと言うのはおかしなことです。「祈りの精神」を書いたP.T.フォーサイスは、祈らないことは罪だと言っています。また祈りに対する気のゆるみのために私たちの信仰生活が堕落していくと書いています。 今朝のテキストの1節に「主イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえ話をされた。」とあり、二つのたとえ話をされました。まず一つ目は、神を畏れず人を人とも思わない不正の裁判官とやもめです。やもめは不正の裁判官に対しても必死で自分は正しい

説教要旨

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