2022年11月06日 17:17
聖書 ヨハネの手紙第一4章7-12節
今朝は永眠者記念礼拝です。先に天に召された11名の方々を覚えて共に礼拝を捧げます。 キリスト教では「神は愛である」と言います。それは、私たちの人生の中で具体的にどういうことかと言いますと、7節「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。」と語りかけています。真実に生きる者は、自分のためにだけ生きるのではありません。他者のために何ができるかを考えて、神からの力を与えられて生きる者です。9節で「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。」と答えています。神の愛とは、
2022年10月30日 15:42
聖書 ルカによる福音書18章35-43節
このテキストに出て来る盲人の名前はバルティマイであると、マルコによる福音書10章46節には書いています。おそらく、この盲人は長い間、道端に座り続けてきたと思われます。そこへナザレのイエスがやって来ると言うニュースが入って来ました。主イエスが来られても、バルティマイは見ることは出来ません。しかし、彼は心を躍らせ、主イエスを心待ちにしていました。バルティマイは、わたしは主イエスを見るのだと信じていたのです。遂にイエスが近づいてくる足音を聞きました。そこで、38節「彼は、『ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫んだ。」のです。40節「イエスは立
2022年10月23日 05:12
聖書 ルカによる福音書18章31-34節
この18章31~34節の中で、主イエスは御自分がこれからどのような定めにもとに、またどのような出来事に遭うかということを語られました。同じ予告を9章21-22節と9章44節でされていますので、これは三度目の最後の予告となります。しかし、33節「彼らは人の子を、鞭打ってから殺す。そして、人の子は三日目に復活する」という言葉の意味が、34節「十二人はこれらのことが何も分からなかった」のです。主イエスの言葉の深い意味は弟子たちには理解されませんでした。なぜでしょうか。31節の前、18~30節で「金持ちの議員」の物語があります。金持ちで若くして名誉もあり地位
2022年10月17日 16:46
聖書 使徒言行録11章19-30節 本日は、小林誠治牧師をお迎えしての特別伝道礼拝です。小林先生は67年にわたり牧師として伝道されてきました。先生にとって人生の転換期は、先生が中学生の時の終戦だったそうです。今朝の使徒言行録11章にはアンティオケアの教会でイエスの使徒達が人々から始めてキリスト者(クリスチャン)と呼ばれたと記されているのですが、小林先生はご自身の様々な経験を通して一節ずつわかりやすく解き明かしてくださいました。ぜひ、ぜひ「礼拝案内」をクリックしてライブ配信をご覧ください(*^-^*)
2022年10月09日 18:03
聖書 ルカによる福音書18章18-30節
18節に「ある議員がイエスに、『善い先生、何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか』と尋ねた」とあります。ある議員とは、当時のユダヤ人社会の最高の会議である最高法院の議員を意味すると理解されています。この議員は23節に「大変な金持ちだった」とあります。しかし、この結末は、主イエスの言われたとおりにすることができなくて悲しんでそこを立ち去っていきます。この男は、信仰者としての生活もしています。しかし、何か一つ自分に欠けているものがあることに気づいています。それは、永遠の命を受け継いでいるとは信じられないということです。死を超えて生き
2022年10月02日 07:15
聖書 ルカによる福音書18章15‐17節
水元教会は1994年10月2日の日曜日から西水元二丁目の斎藤宏牧師の自宅を開放されて伝道を開始しました。その10年後、現在のこの水元二丁目に移転して、2005年3月27日のイースター礼拝が行われました。28年の教会の歴史を支え、守られた神の恵みに感謝いたします。 今朝はルカ福音書18章15節から17節を学びます。15節に「イエスに触れていただくために、人々は乳飲み子までも連れて来た。」のですが、ところが「弟子たちは、これを見て叱った。」とあります。弟子たちにとって、主イエスの話はファリサイ派の人々さえも打ち負かすほど難しく気高い話であり、このようなと
2022年09月25日 05:27
聖書 ルカによる福音書18章1-14節
信仰生活を全うするために大事なことは祈ることです。神を信じていると言いながら祈ることがないと言うのはおかしなことです。「祈りの精神」を書いたP.T.フォーサイスは、祈らないことは罪だと言っています。また祈りに対する気のゆるみのために私たちの信仰生活が堕落していくと書いています。 今朝のテキストの1節に「主イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえ話をされた。」とあり、二つのたとえ話をされました。まず一つ目は、神を畏れず人を人とも思わない不正の裁判官とやもめです。やもめは不正の裁判官に対しても必死で自分は正しい
2022年09月11日 05:35
聖書 ルカによる福音書17章20-21節
ファリサイ派の人の問いに、20節「ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。『神の国は、見える形では来ない。』」主イエスは、神の国は見えない。また、それを見ようとしても、見える形では来るのではないと答えられたのです。また21節で「『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」と言われました。神の国は、人間と人間の関わりの中にあるのだということです。主イエスは、ファリサイ派の人々に内側を清めなければならないと何度も言われました。しかし、神の国また信仰というのは、私たち
2022年09月04日 17:08
聖書 ルカによる福音書17章11-19節
今朝の聖書には一人のサマリヤ人が登場します。まず重い皮膚病のために人里離れた村で家族と離れて暮らす10人がいたと記されています。この人たちの生活は、悲しみと絶望でした。それでも、彼らは、いつか主イエスと出会って、この病がいやされることが一つの希望であり悲願であったのです。彼らは、旅人が通っても、ただ遠くからながめるだけでした。しかし、そこに主イエスが通られた。彼らは13節「声を張り上げて『イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください』と言った」のです。必死で大声で叫んだのでした。14節「イエスはこの重い皮膚病を患っている人たちを見て『祭司た