2022年07月10日 14:51
聖書 ルカによる福音書15章11-24節
このテキストの中心人物である「放蕩息子」は私どもと関係のない人物ではありません。自分は放蕩などしたこともないと言う人もおられると思いますが、一人の人間が生きた姿の中に同じ人間である私たちとの深いかかわりを見ることが出来るのです。その第一は、人間の不安です。この息子は父親から財産の半分をもらった。物さえあれば、金さえあれば、自分の人生は大丈夫だと考えている人は多くいます。神とかキリストから離れて、自分が生きたいように、やりたいように出来る人生は何と素晴らしいことだと思う人は多いのです。そのような中で息子は、父親から離れ、一文無しになって、はじめて深刻な
2022年07月03日 17:07
聖書 ルカによる福音書15章1-10節
私たちが信仰により救われる経験をすると、誰もが新しい者とされるということを信じて歩み出すことは大切なことだと思います。しかし、やはり自分は何も変わらないし何も新しくなっていないという人がいます。が、実は新しくなっているのです。すでに、誰もがキリストの恵みの業として起こっているのです。どこがどのように変わっていくのでしょうか。それは生きる方向が変わってくるということです。新しくその方向に生きるということは、主イエス・キリストに似た者となる道を歩むということです。ルカ福音書の15章に、羊飼いが迷子の一匹の羊を見つけ出すために、また、一人の婦人が無くした一枚
2022年06月27日 09:42
聖書 使徒言行録16章16~24節
本日の礼拝は、志村栄光教会(板橋区)と水元教会の講壇交換日と致しまして、朴貞蓮(パク ジョンヨン)牧師による宣教です。
宣教の題の道具は否定的な意味合いに、また隣人と対象的な意味合いにも取れますが、そうではなく、神の御心を示す時、恵みの御業の成就のために、ある特定の人や民族を道具とされることがあると言われます。
しかし、この16節以下にでてくる女奴隷の主人は、彼女をただ自分たちの金儲けのための道具として使っていたのです。17節で「この人たちは、いと高き神の僕で、皆さんに救いの道を宣べ伝えているのです。」と女奴隷が幾日も繰り返す言葉は、一見、パウロやシラ
2022年06月19日 08:09
聖書 ルカによる福音書15章1-7節
今日は主イエスの譬え話を学びたいと思います。4節で「見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか」と主イエスはためらいもなく、当然のこととして語られました。主イエスは道に迷いやすい弱い羊がいる。その一匹が迷い出た。遊牧民として生き、貧しい生活をして来た人にとって、羊は命のように大切であり、彼らの生活を支える貴重なものでした。羊飼いは羊の顔を見分けることが出来て、囲いの外に出したり中に入れたりしていたと言われています。ですから自分の羊が一匹でもいなくなったということは大変なことです。「その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見
2022年06月12日 07:03
聖書 ルカによる福音書14章25-35節
34節「確かに塩は良いものだ。だが、塩も塩気がなくなれば、その塩は何によって味が付けられようか。畑にも肥料にも、役立たず、外に投げ捨てられるだけだ。聞く耳のある者は聞きなさい。」これは、大変厳しい言葉です。私どものような者が、「塩」になれるのかと考えてしまいます。塩は純潔を表しています。身を清める時にも塩を身体にまいたりします。塩は物が腐るのを防ぎます。人間の生活が腐敗するのは、心の内側によることはいうまでもありません。そして、塩に塩気がなくなれば、もう取り返しがつかないと言われます。これは、塩にたとえられる福音を述べ伝えることを言っています。「塩に
2022年06月03日 06:32
聖書 使徒言行録2章14-21節
キリスト教が世界の宗教となったキーとなるのは、一つはペンテコステです。まず使徒たちの上に聖霊が降りたこと、二番目にはペトロの働き、三番目にはパウロの働きです。ペンテコステというのは、イエスの復活の後、集まっていた120人の信徒の上に神からの聖霊が降りた出来事です。聖霊降臨は人を変えていきます。ペトロはイエスがローマの兵士に捕まり連れていかれた時、そっと大祭司の中庭までついて行きましが、女中に「この人もイエスと一緒にいた」と言われたときも「あなたはキリストの弟子だろう」と言われたときも、「わたしはあの人を知らない」と言ってイエスを裏切ってしまったのでした。その
2022年05月29日 05:40
聖書 ルカによる福音書14章15-24節
今朝の中心聖句は16節の「ある人が盛大な宴会を催そうとして、大勢の人を招いた」です。これはまさに聖書が語るところの神の国のたとえだと言われています。「ある人」とはもちろん神様のことですが、神の国の世界は、神と共に食卓に着くのに似ています。神が招いておられた人々は、最初は「喜んで伺います」と言っていたのですが、ここで断り始めました。ユダヤの社会では約束を重んじるという習慣から、日本でも同じことですが、非常に失礼なことです。それぞれに理由があるようです。一つの標準的な三人がそれぞれの理由で断りました。主イエスがなぜこのようなたとえ話をなさったのでしょうか
2022年05月22日 12:21
聖書 ルカによる福音書14章1-14節
11節「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」と主イエスが言われる意味は、自分を低くする者が高くされるのは、神の慈しみによる高さにおいてというのです。13節では「宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見ない人を招きなさい」と言われました。それは、誰でも招かれるとお返しをしたり、こちらから招いたりするものです。しかし、主イエスは、自分を食事に招いてくれた人にお返しできる人ではなく、出来ない人を招きなさいと言われました。この世における報いはお返しにすぎません。しかし、神の報いは世の終わりに完成する神の国に
2022年05月15日 07:27
聖書 ルカによる福音書13章31-35節
32~33節に「行って、あの狐に『今日も明日も、悪霊を追い出し、病気をいやし、三日目にすべてを終える』とわたしが言ったと伝えなさい。」33節「だが、わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない。預言者がエルサレム以外の所で死ぬことは、ありえないからだ。」と、主イエスはファリサイ派の人々に言われたのです。主イエスは今日も明日も、悪霊を追い出し、病気をいやし、人々を束縛するものから解き放ち自由にしようと働かれました。なぜ自分の広げる愛の翼の中に入ろうとしないのかと言われます。人々の心を縛る罪、不安を生む悪の力から解き放ちたい。病があり、憩
2022年05月05日 06:10
聖書 ルカによる福音書13章22-30節
福音書の著者であるルカは22節「イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた」と書き始めました。ルカは、この町や村が、まだエルサレムからずいぶん遠いところにあることをよく知っていました。しかし、イエスがエルサレムに向かって歩まれていることを思い起こさせます。エルサレムとは、主イエスが十字架の上で死なれた場所であり、復活された場所でもあります。今、私たちは確信をもって、主イエスがエルサレムに向かい十字架と復活に向かう歩みをしておられるということを知っています。23節「すると、『主よ、救われる人は少ないのでしょうか。』という人がい