2022年06月19日 08:09
聖書 ルカによる福音書15章1-7節
今日は主イエスの譬え話を学びたいと思います。4節で「見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか」と主イエスはためらいもなく、当然のこととして語られました。主イエスは道に迷いやすい弱い羊がいる。その一匹が迷い出た。遊牧民として生き、貧しい生活をして来た人にとって、羊は命のように大切であり、彼らの生活を支える貴重なものでした。羊飼いは羊の顔を見分けることが出来て、囲いの外に出したり中に入れたりしていたと言われています。ですから自分の羊が一匹でもいなくなったということは大変なことです。「その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見
2022年06月12日 07:03
聖書 ルカによる福音書14章25-35節
34節「確かに塩は良いものだ。だが、塩も塩気がなくなれば、その塩は何によって味が付けられようか。畑にも肥料にも、役立たず、外に投げ捨てられるだけだ。聞く耳のある者は聞きなさい。」これは、大変厳しい言葉です。私どものような者が、「塩」になれるのかと考えてしまいます。塩は純潔を表しています。身を清める時にも塩を身体にまいたりします。塩は物が腐るのを防ぎます。人間の生活が腐敗するのは、心の内側によることはいうまでもありません。そして、塩に塩気がなくなれば、もう取り返しがつかないと言われます。これは、塩にたとえられる福音を述べ伝えることを言っています。「塩に
2022年06月03日 06:32
聖書 使徒言行録2章14-21節
キリスト教が世界の宗教となったキーとなるのは、一つはペンテコステです。まず使徒たちの上に聖霊が降りたこと、二番目にはペトロの働き、三番目にはパウロの働きです。ペンテコステというのは、イエスの復活の後、集まっていた120人の信徒の上に神からの聖霊が降りた出来事です。聖霊降臨は人を変えていきます。ペトロはイエスがローマの兵士に捕まり連れていかれた時、そっと大祭司の中庭までついて行きましが、女中に「この人もイエスと一緒にいた」と言われたときも「あなたはキリストの弟子だろう」と言われたときも、「わたしはあの人を知らない」と言ってイエスを裏切ってしまったのでした。その
2022年05月29日 05:40
聖書 ルカによる福音書14章15-24節
今朝の中心聖句は16節の「ある人が盛大な宴会を催そうとして、大勢の人を招いた」です。これはまさに聖書が語るところの神の国のたとえだと言われています。「ある人」とはもちろん神様のことですが、神の国の世界は、神と共に食卓に着くのに似ています。神が招いておられた人々は、最初は「喜んで伺います」と言っていたのですが、ここで断り始めました。ユダヤの社会では約束を重んじるという習慣から、日本でも同じことですが、非常に失礼なことです。それぞれに理由があるようです。一つの標準的な三人がそれぞれの理由で断りました。主イエスがなぜこのようなたとえ話をなさったのでしょうか
2022年05月22日 12:21
聖書 ルカによる福音書14章1-14節
11節「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」と主イエスが言われる意味は、自分を低くする者が高くされるのは、神の慈しみによる高さにおいてというのです。13節では「宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見ない人を招きなさい」と言われました。それは、誰でも招かれるとお返しをしたり、こちらから招いたりするものです。しかし、主イエスは、自分を食事に招いてくれた人にお返しできる人ではなく、出来ない人を招きなさいと言われました。この世における報いはお返しにすぎません。しかし、神の報いは世の終わりに完成する神の国に
2022年05月15日 07:27
聖書 ルカによる福音書13章31-35節
32~33節に「行って、あの狐に『今日も明日も、悪霊を追い出し、病気をいやし、三日目にすべてを終える』とわたしが言ったと伝えなさい。」33節「だが、わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない。預言者がエルサレム以外の所で死ぬことは、ありえないからだ。」と、主イエスはファリサイ派の人々に言われたのです。主イエスは今日も明日も、悪霊を追い出し、病気をいやし、人々を束縛するものから解き放ち自由にしようと働かれました。なぜ自分の広げる愛の翼の中に入ろうとしないのかと言われます。人々の心を縛る罪、不安を生む悪の力から解き放ちたい。病があり、憩
2022年05月05日 06:10
聖書 ルカによる福音書13章22-30節
福音書の著者であるルカは22節「イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた」と書き始めました。ルカは、この町や村が、まだエルサレムからずいぶん遠いところにあることをよく知っていました。しかし、イエスがエルサレムに向かって歩まれていることを思い起こさせます。エルサレムとは、主イエスが十字架の上で死なれた場所であり、復活された場所でもあります。今、私たちは確信をもって、主イエスがエルサレムに向かい十字架と復活に向かう歩みをしておられるということを知っています。23節「すると、『主よ、救われる人は少ないのでしょうか。』という人がい
2022年05月01日 06:54
聖書 ルカによる福音書13章10-21節
主イエスは、神の国はからし種に似たようなものでありパン種のようなものであると言われました。パレスチナの小さなユダヤの国の、しかも誰も知らない片田舎の小さな会堂の中でのことです。この小さな、隠れた主の御業がやがて芽生え、枝を伸ばし、空の鳥たちが宿るようになります。神の国は空想ではなく、聖書が語る神の国は現実の歴史の中で始まっていました。その会堂の礼拝の中に、18年間も腰が曲がったままであった女性がいました。12~13節「イエスはその女を見て呼び寄せ、『婦人よ、病気は治った』と言って、その上に手を置かれた。女は、たちどころに腰がまっすぐになり、神を賛美した
2022年04月24日 17:35
聖書 ルカによる福音書13章1-9節
6節~7節「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』」と主イエスは、このような譬え話をされました。どういうわけか、ぶどう園にいちじくの木が植えられています。ぶどうを上手に栽培するために、いちじくの木を植えるということがあったのでしょうか。あるいは特に実らないいちじくの木を置くということは、これはエルサレムの都をなぜらえてのことでしょうか。ここにあるのは皆ぶどうの木で
2022年04月17日 17:13
聖書 ルカによる福音書24章1-12節
婦人たちは、1節「週の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った。」のです。外はまだ暗かったと思われます。彼女たちは用意した香油を携え、墓に行ってイエスのお体に香油を塗ることを考えていました。ところが、彼女たちが見たものは、墓の入り口をふさいでいた石が転がされていたということです。3節「中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。」空虚な墓の中で、婦人たちが4節「そのため途方にくれていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。」この輝く衣を着た2人の者とは天使と思われますが、5節「恐れて地に顔を伏せた」この婦人たちは、この衣を着た二人から「な