2021年02月24日 06:59
聖書 ルカによる福音書4章31-37節
カファルナウムというところは、ガリラヤ湖畔の北西にある町です。神の霊に満ちた礼拝をカファルナウムの人々は経験しました。32節「人々はその教えに非常に驚いた。その言葉には権威があったからである」と主イエスの教えに驚きました。33節「ところが会堂に、汚れた悪霊に取りつかれた男がいて、大声で叫んだ。『ああ、ナザレのイエスかまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ』」「汚れた悪霊」とは、神の支配に反逆する力です。神の御心に逆らう力であって、それが私たち人間を支配すると暗闇に引きずって行きます。35節「イエスが、『黙れ、この人から
2021年02月23日 17:24
聖書 ルカによる福音書4章14ー30節
16~17節で、主イエスは「いつもとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある箇所が目にとまった」とあります。その箇所とは18節にある預言者イザヤの書でした。なぜ主イエスはイザヤ書61章の言葉を読まれたのか。そこには「貧しい人に福音を告げ知らせるために」と、神から遣わされるものが来ると告げられていました。21節「そこでイエスは『この聖書のことばは、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した』と話し始められた」と話されました。この預言が今起こっていると言われたのです。この時
2021年02月13日 15:44
聖書 ルカによる福音書4章1-13節
主イエスが受洗されて後、この地上における伝道の生活を始められる間に、荒野で悪魔の誘惑がありました。3節「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ」9節では「神の子なら、ここから飛び降りたらどうか」と。悪魔は、このイエスと言うお方が本当に神の子であるかどうか、そのことを試したかったのです。悪魔には、本物であるなら実際に証拠を見せてくれと言って、主イエスを引きずり降ろそうという意図がありました。神の子イエスがこの戦いをされたのは、私ども人間を救うためです。人間を救うために何をしようとしているのか、このように悪魔は問い、同時に私たちも問われています。
2021年02月02日 15:55
聖書 ルカによる福音書3章21-23節
今朝の記事は主イエスがバプテスマを受けられたときの記事です。21-22節「民衆が皆洗礼を受け、イエスと共に洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた」ここに記されている「祈っておられる」という言葉ですが、ルカは主イエスがいつも朝早く一人で祈っておられるお姿をしばしば書いています。主イエスは弟子たちをお選びになるときも、徹夜の祈りをなさったことが6章に出てきます。これは、主イエスは神との深いかかわりに生きておられるお姿です
2021年01月27日 16:23
聖書 ルカによる福音書3章15-20節
15節「民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた」と記しています。洗礼者ヨハネの活動のうわさを聞き、一度はもしかしたらこの男こそは我々に救いをもたらす者なのだろうかと考えたのです。ヨハネの説教を聞いた人々は、一体何をすればよいのか、多くの人々はヨハネに尋ねました。徴税人である男には、規定以上のものは取り立てるな。また兵士たちには「誰からもお金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」と言われたのです。しかし、ヨハネは、わたしの手の中に救いはない。わたしのすぐ後に来られる方
2021年01月19日 16:39
聖書 ルカによる福音書3章1-14節
旧約聖書時代のマラキ以来の預言者が現れました。エルサレムでなく荒野に不思議な力を持った洗礼者ヨハネです。ヨハネは、ヨルダン川のほとりで、禁欲生活をし、ラクダの毛衣を衣服とし、腰には革の帯を締め、いなごと野密を食べて暮らしていました。ヨハネはキリストの先駆者としてキリストに洗礼を授けるという大役を果たしました。ヨハネは悔い改めの洗礼をしながら、自分はキリストを証するために来たのであると言いました。ヨハネの語る悔い改めの理由は「神の国が近づいたから」という理由です。メシアの到来は近い。それゆえに自分の罪を悔い改め、メシアを迎えるための準備をせよということです
2021年01月13日 18:42
聖書 ヨハネによる福音書12章20-26節
24節に「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」とあります。この聖句は非常によく知られています。今朝の礼拝において、この言葉を、斎藤宏牧師記念礼拝において、斎藤先生に贈りたいと思います。水元教会がこの地で教会として立っていけるのは、また皆さんが信仰を言い表すことが出来たのは、一粒の麦が死んでくださったからだということです。もちろん一粒の麦として、主イエス・キリストが私どものために死んでくださったからです。この一粒の麦が、この姿を変えられるのは嫌だ、ここで死んでしまうのは嫌だと頑固に言い張ってしまうと、こ
2021年01月05日 20:40
聖書 ルカによる福音書2章39-52節
今朝の聖書の言葉は、主イエスの少年時代のエピソードを記しています。42節「イエスが12歳になった時も、両親は祭りの慣習に従って都に上った」とあります。イスラエル人はモーセの律法(申命記16章16節)に従ってエルサレム神殿に年3回行っていました。ヨセフとマリアが年に三度のエルサレムに上ることは経済的に出来なかったと思われますが、しかし過越しの祭りを祝うために、イエスを連れて行きました。ところがイエスが帰りの一団の中にいると思っていましたが、いないことに両親は1日経ってから気づきました。その日から三日もかけて、明け方から日が暮れるまでイエスを探し続けました
2020年12月30日 20:45
聖書 ルカによる福音書2章22節―38節
2021年を迎えまして、新年を心からお喜び申し上げます。私どもの教会が深く信仰に根ざしていく教会として、この新年を、希望を持って進んで行きたいと思います。
25節以下に「その時、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰が厚く、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。シメオンが霊に導かれて神殿の境内に入って来た。シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます
2020年12月26日 22:03
聖書 ルカによる福音書2章15-20節
羊飼いたちは「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった」という天使の言葉を聞いて従いました。羊飼いたちはすぐに「ベツレヘムに行こう」と言っています。この「従う」ということが非常に大切なことを教えてくれています。従うとは、自分を相手に委ねていく生き方です。羊飼いたちは神の言葉を自分のこととして受け止めました。キリストの弟子になった人たちもそうでした。弟子たちは、すぐにイエスに従って行きました。私たちは場所や状況は違っても、弟子たちと同じこを、羊飼いたちと同じことをしていると言えます。私たちは、神の言葉に聞いて、従っている者です。だから