2020年07月13日 18:21
聖書 マタイによる福音書26章26-35節
主イエスはご自分の死を前にして、まさしく絶望の闇の中で「いのちの約束」について語っておられます。この朝、特に心に刻むべき言葉は、29節「言っておくが、わたしの父の国であなたがたと共に新たに飲むその日まで、今後ぶどうの実からつくったものを飲むことは決してあるまい。」もう一つは29節「しかし、わたしは復活した後、あなたがたよりも先にガリラヤへ行く」です。私たちの教会では毎月第一聖日に聖餐式を行っています。最後の晩餐は主イエスが私どもと共にぶどうの実からぶどう酒を飲んでくださる日です。私たちは、聖餐において主イエスの罪の赦しの血にあずかります。式文で読ま
2020年07月06日 12:48
聖書 マタイによる福音書26章14-25節
21節「一同が食事をしているとき、イエスは言われた。『はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている』」と、主イエスは最後の晩餐の席で言われました。ご自分が間もなくユダヤの指導者の手に渡され、殺されるのだということ預言なさいました。それを聞いた弟子たちは22節「非常に心を痛めて『主よ、まさかわたしのことでは』と代わる代わる言い始めた。」のでした。弟子たちが「心を痛めた」というのは、非常に悲しんだということです。誰が主イエスを裏切るのか、そのことが気になったのですが弟子たちは誰も誰が裏切るかを問いませんでした。本当は自分はそ
2020年06月29日 12:51
聖書 マタイによる福音書26章1-13節
1節から5節でイエスはご自身が十字架につけられるために引き渡される。と言われました。それから6節「さて、イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家におられたとき、一人の女が、きわめて高価な香油の入った石膏の壺をもって近寄り、食事の席に着いておられるイエスの頭に香油を注ぎかけた。」と、ここでマタイは「一人の女」とだけ書いています。主イエスもまた、同様にこの人の名前を呼んではおられません。12節を読みますと「この人はわたしの体に香油を注いで、わたしを葬る準備をしてくれた。はっきり言っておく。世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたこと
2020年06月23日 08:05
聖書 ダニエル書3章8-13節
人生には、誰にとっても辛いことがつきまといます。それは信仰に生きる人の生活でも変わりません。ダニエル書の主題の一つが、この地上の人生の苦難の中を生きる信仰にあります。今朝の3章は特にダニエル書でも有名な「燃え盛る炉の中」に投げ込まれたダニエルの友人である三人の若者の話しです。17-18節「私たちのお仕えする神は、その燃え盛る炉や王様の手から私たちを救うことが出来ますし、必ず救ってくださいます。そうでなくても、ご承知ください。わたしたちは王様の神々に仕えることも、お建てになった金の像を拝むことも、決していたしません。」と、ネブカドネツェル王に偶像を拝むことを拒否し
2020年06月16日 12:25
聖書 マタイによる福音書25章31-46節
40節の「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」との言葉と、45節の「はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。」が重なるように記されています。ここに出て来る「最も小さい者」というのは何の値打ちもない者と思われている者です。さらにすべての人というのではなく「たった一人」にしたことが問われています。そこで行われるわざというのは一体なんでしょうか?これはただ、その人が飢えていた時に食べさせてあげる、渇いている時に一杯の水を与える
2020年06月13日 06:53
聖書 マタイによる福音書25章14-30節
信頼する僕たちに、主人は、5タラントン、2タラントン、1タラントンずつのお金を預けました。そのお金の預け方は「それぞれの能力に応じて」でした。才能に合わせて神が与えてくださった「神からの使命であり課題」で、それは「神の宝」でした。三人の僕は、みなそれぞれに才能がありました。それぞれに神の仕事が委ねられました。神は決して差別しておられません。2タラントンの賜物を与えられた僕は、5タラントンの仕事をした僕と同じように主人に喜ばれています。『主人と一緒に喜んでくれ』と、その喜びに差はありません。このタラントンとは何を意味しているのでしょうか。何も語られてい
2020年06月03日 06:49
聖書 マタイによる福音書25章1-13節
10人のおとめのたとえは、主イエスが語って下さったお話です。10人のおとめは花婿を迎える務めを与えられました。そこで主イエスは2節で「5人は愚かで、5人は賢かった」と二組がいたと話されます。この5人の思慮浅いおとめの愚かさはどこに表れたのでしょうか。それは、明かりは用意していたが、その明かりを絶やさないための「油」を用意していなかったことです。賢い者はその逆で「油」を用意していました。夜が更けても花婿が現れないので10人のおとめたちは皆、眠ってしまいました。夜中に「花婿が来た、さあ迎えに出なさい」という呼び声がして一斉に飛び起きました。そのとき、準備が
2020年05月25日 16:57
聖書 使徒言行録1章1-11節
使徒言行録第1章にキリストの昇天の記事が記されています。9節に「イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった」と記されています。このようなことが書かれていますと、少し正直なところ戸惑います。それは、キリストが天に上げられたという現象だけではありません。クリスマスの出来事を記したマタイ福音書2章2節「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちは東方でその方の星を見たので、拝みにきたのです」とあり、ベツレヘムの星、羊飼いと天使、東方の博士たちのことが書かれているのと同じです。これらのことが、歴史上本当に
2020年05月19日 07:23
聖書 マタイによる福音書24章32-51節
主イエスは38節以下で創世記が伝えるノアについて語られました。ノアの物語を主イエスの時代に持ち込んだものですが、それは今この時代に生きる私どもに対する問いかけとして聴くべきことです。「終わらせる時が来ている」というのは、神様がこの地上の現実の悲惨さをご覧になって「地上に、人を造ったことを後悔し、心を痛められた」のです。そこで「すべて肉なるものの終わりが、わたしの前に来た」と言われたのです。神様が「滅ぼす」目的は、正しい人を「生き延びさせる」ためです。そのためにノアとその家族が選ばれました。ノアという人は神様から舟を作るように言われました。ノアはこっそ
2020年05月15日 05:42
聖書 マタイによる福音書24章15-31節
主イエス・キリストが語られる受難の物語です。主イエスは、ご自分の死を前にして、この24章において長く心をこめて語られることは、自分はまもなく死んでいくが、それですべてが終わるのではない。必ずやがて私は再び来るという約束です。自分が現れるということは、あなた方の日々の生活に無関係ではない、だから確かな信仰の道を歩んでほしいと最も大切なことを教えておられます。15節「預言者ダニエルの言った憎むべき破壊者が、聖なる場所に立つのを見たら」という言葉から始まります。預言者ダニエルとは旧約聖書ダニエル書に記されています。聖なる場所というのはエルサレム神殿で、神殿