2020年05月25日 16:57
聖書 使徒言行録1章1-11節
使徒言行録第1章にキリストの昇天の記事が記されています。9節に「イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった」と記されています。このようなことが書かれていますと、少し正直なところ戸惑います。それは、キリストが天に上げられたという現象だけではありません。クリスマスの出来事を記したマタイ福音書2章2節「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちは東方でその方の星を見たので、拝みにきたのです」とあり、ベツレヘムの星、羊飼いと天使、東方の博士たちのことが書かれているのと同じです。これらのことが、歴史上本当に
2020年05月19日 07:23
聖書 マタイによる福音書24章32-51節
主イエスは38節以下で創世記が伝えるノアについて語られました。ノアの物語を主イエスの時代に持ち込んだものですが、それは今この時代に生きる私どもに対する問いかけとして聴くべきことです。「終わらせる時が来ている」というのは、神様がこの地上の現実の悲惨さをご覧になって「地上に、人を造ったことを後悔し、心を痛められた」のです。そこで「すべて肉なるものの終わりが、わたしの前に来た」と言われたのです。神様が「滅ぼす」目的は、正しい人を「生き延びさせる」ためです。そのためにノアとその家族が選ばれました。ノアという人は神様から舟を作るように言われました。ノアはこっそ
2020年05月15日 05:42
聖書 マタイによる福音書24章15-31節
主イエス・キリストが語られる受難の物語です。主イエスは、ご自分の死を前にして、この24章において長く心をこめて語られることは、自分はまもなく死んでいくが、それですべてが終わるのではない。必ずやがて私は再び来るという約束です。自分が現れるということは、あなた方の日々の生活に無関係ではない、だから確かな信仰の道を歩んでほしいと最も大切なことを教えておられます。15節「預言者ダニエルの言った憎むべき破壊者が、聖なる場所に立つのを見たら」という言葉から始まります。預言者ダニエルとは旧約聖書ダニエル書に記されています。聖なる場所というのはエルサレム神殿で、神殿
2020年05月04日 21:18
聖書 マタイによる福音書24章1-14節
今日のテキストの個所は福音書の中の黙示録、あるいは黙示文学と呼ばれているところです。黙示とは「秘密を明かす」ということ、信頼できる人に秘密をを知らせる意味を持っています。その秘密とは、世の終わりです。1節に「イエスが神殿の境内を出て行かれると、弟子たちが近寄って来て、イエスに神殿の建物を指さした」とあります。これは23章38節に記されている「見よ、お前たちの家は見捨てられて荒れ果てる」つまり神殿は破壊されるということです。弟子たちには、主イエスの言葉は信じられない思いがありました。こんな立派な建物が崩壊することはない、どういう意味なのか不安であったと思
2020年04月27日 22:23
聖書 マタイによる福音書23章25-39節
28節に「外側は人に正しいように見えながら、内側は偽善と不法で満ちている」と記されています。立派なことを言うけれども心の中は全く別の考えであり、表面は良い生活をして見せるような人を偽善者と言います。人間とは、外側での正しい生活、人々からよく見える生活をするものです。そして、偽善は人々には見抜けません。「内側にひそんでいる偽善を、見抜けるのは神様だけ」です。自分でも見抜けないのです。人は、主イエスが見るその鋭さと深さにおいて自分の偽善の罪を見ることになります。教会においても人間の集まりである限り、そこには互いの偽善を作るよりほかありません。その偽善
2020年04月23日 14:45
聖書 コリントの信徒への手紙第一13章13節
「信仰、希望、愛、このうち最も大いなるものは愛である」。これは、2020年度の水元教会の聖句として教会員の投票によって選出されました。この聖句をを書かれたのは二人の姉妹ですが、教会のために祈っておられる人たちが、この聖句を取り上げられたことに感謝します。いつまでも残るもの、永遠に存続するものは、この世に多くはありません。キリストを信仰する生活をする私たちの生活は神と共に生きていくことであります。その信仰とは現実の生活とのかかわりがなければ空しいものであります。信仰には仰ぐ対象があります。それは神であり私たちの信仰の態度は神に向けることであります。そ
2020年04月15日 18:24
聖書 マタイによる福音書28章16-20節
19節「だから、あなた方は行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなた方に命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」このイエスの宣教命令を聞くまでは、弟子たちは故郷のガリラヤに帰って漁師になるか、あるいは徴税人として仕事をするか、それが出来なければ何か他の商売でもして生きていこうと思っていたかもしれません。弟子たちが見ている世界は狭かったのです。ところがイエスの宣教命令は、今までガリラヤの小さな漁村で生きてきた弟子たちにとって、とんでもない目がくらむような思いがしたと思います。実現できるとは思わ
2020年04月08日 05:48
聖書 マタイによる福音書28章1-20節
現代に生きる私どもは、死後の世界を考えることはなくなってしまい、死んだら、もう終わりだと思っています。人間的にはそれは合理的な考えだと思います。肉体がなくなれば、もう二度と会うことが出来ません。今朝のテキストのあるキリストの復活の出来事に、多くの人はつまずきます。死からよみがえることなど、理性では理解ではできないからです。
イエス・キリストがよみがえったこと、そして弟子たちの故郷ガリラヤに帰る時、復活のイエスが先にガリラヤに着いていることを福音書は記しています。人生の中で最も確実だと思われた死の確かさを弟子たちは疑い始めました。墓を閉じていた石が取
2020年03月31日 15:13
聖書 マタイによる福音書27章45-56節
45節以下には「さて、昼の12時に、全地は暗くなり、それが3時まで続いた。3時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。『エリ、エリ、レマサバクダニ』これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である」。神の子が人にあざけられ、弟子たちにも捨てられ、神にも見捨てられるというのは、何のためかというならば、私どもの罪のためです。本当は私どもが捨てられるべきものであったのです。イエスは十字架において苦しみ抜かれました。しかし、その苦しみの中にすでに神の安らぎが始まっていました。十字架の記事を書いたマタイは、その後に50節「しかし、イエス
2020年03月24日 10:54
聖書 マタイによる福音書27章27-44節
今日のテキストは、主イエスが十字架につけられるに至る「十字架への道」の部分です。それは実際にイエス・キリストが歩まれた道です。裁きの場からゴルゴダへの道をマタイは簡潔に書いています。途中、32節「兵士たちは出て行くと、シモンという名前のキレネ人に出会ったので、イエスの十字架を無理に担がせた」と記されています。重い十字架を背負って、狭い道を歩むことは、イエスにとっては無理なことです。ローマの兵隊たちは、通りすがりのキレネ人シモンに無理やりにその十字架を背負わせました。今まで何の関わりもなかった者が、この世のすべての人の救いと関りを持つ十字架を背負った