2019年12月31日 08:06
聖書 ヨハネの手紙第一2章9-11節
明けましておめでとうございます。昨年を振り返りますと、この水こと教会が創立25周年を迎えたことは、神に深い導きがあり、祝福があり、神が水元教会を顧みてくださったことだと感謝をしています。また新しい年を迎え、皆さんと共に神様に従順な者でありたいと願って祈るものです。人間は闇の中に置かれると、「どこへ行くのかわからない」存在となって行きます。光の中を生きるということは愛に生きることです。もう一つのことは聖霊が注がれた人です。聖霊が注がれた人は、愛に満ち喜びの中で生きていける人です。自分の心がいつも平和であり、この地上の生活においても平和のため希望を持ち続けて
2019年12月27日 06:01
聖書 マタイによる福音書21章18-22節
21章は1節から主イエスの一週間を記しています。18節以下はその二日目の朝のことです。18節「朝早く、都に帰る途中、イエスは空腹を覚えられた」とありますように、朝の早いときでした。エルサレムに帰る途中、イエスは空腹を覚えられました。その道に一本のいちじくの木が立っていました。しかし、そのいちじくの木は緑の葉が茂っているだけで、実は実っていませんでした。主イエスの飢えを満たす実を実らせていませんでした。そこで、イエスはその木にむかって「今から後いつまでも、お前には実がならないように」と言われると、いちじくの木はたちまち枯れてしまった、と記されていま
2019年12月23日 22:19
ルカによる福音書2章1-20節
ルカによる福音書のイエス降誕物語は、簡潔に事実だけを告げています。1節「そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た」と記されていて、10節以下に天使の言葉が記されています。「天使は言った。『恐れるな。わたしは民全体に与えられる大きな喜びを告げる。』」イエスの誕生日を喜びの福音として皇帝アウグストゥスのもとで生まれたイエスの誕生こそ、神の言葉によって大きな喜びを人々に語り告げられたのだということを、ルカ福音書は強調しています。皇帝アウグストゥスの治世に、もう一人の王がお生まれになった。二人の王のうち、どちらが真実の王として人々の平和を
2019年12月17日 16:25
聖書 マタイによる福音書1章18-25節
クリスマス礼拝の宣教の題を「神は共におられる」としました。それは、23節「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。」と記されているように、自分の信仰を告白する言葉でもあります。神を信じ、イエス・キリストを救い主と信じる我々には、神が共にいてくださることが力となるからです。イエスは人間としてユダヤの国で生まれました。彼は、一人の幼子となり神の子として、また一人のユダヤ人という人間としてして生きたのです。しかし、彼は自分の民を罪から救う者として、すなわち救い主としての一つの
2019年12月09日 13:46
聖書 列王記上19章1-18節
聖書では、ごく少数の「残された者」たち、つまり神を信じている人たちによって、国が再建されていく様が記されています。聖書では「残りの者」という表現をしていますが、これはエリヤの時代の「7千人」のように、神の目的を果たすために、恵みによって残された人々のことです。18節「しかし、わたしはイスラエルに7千人を残す。これは皆、バアルにひざまずかず、これに口づけしなかった者である。」また「残りの者」は特にイザヤ書に記されています。イザヤ書10章20-21節で「その日には、イスラエルの残りの者とヤコブの家の逃れた者とは、再び自分たちを撃った敵に頼ることなく、イスラエルの聖な
2019年12月02日 18:36
聖書 詩編42編1-5節
2-3節「枯れた谷に鹿が水を求めるように、神よ、わたしの魂はあなたを求める。神に、命の神に、わたしの魂は渇く。いつ御前に出て、神の御顔を仰ぐことができるのか。」わたしたちは神の恵みばかり求めやすいものですが、神の愛は、わたしが神を愛して行くことにおいて初めて知ることができます。神を求めるとはそういうものではないでしょうか。わたしの魂が神を求めていくことにおいて、すでにわたしのような者を求めていてくださる神を知ることができるのです。「枯れた谷に鹿が水を求めるように」ということは、日照りの中に取り残された鹿にとっては、望むものはただ一滴の水です。谷の水を求めるように、わ
2019年11月27日 06:36
聖書 マタイによる福音書1章1-6節
イスラエルの歴史は、文字通り「神の救いの歴史」です。系図に示されている一人一人は、それぞれの歴史の中で、あるものは神に背き、ある者は神に帰り、ある者は苦悩と罪の深い淵の底から神を求めて生きた人です。そこには、神の御手があり、神の導きが豊かに与えられたのです。しかし、この系図は私どもと何の縁もない外国人の名前が無意味に並べられているということではなく、一人一人の存在の意味を、神はその救いのわざの中に示しておられます。終末の救い主として、イエスの誕生を指し示しておられるのです。救い主が生まれるということの背後に、長い歴史の中に働いておられる神が、この「すべて
2019年11月23日 06:53
聖書 哀歌1章16-22節
「哀歌」は全体で5章からなる短い書です。この書の主題は、都エルサレムの陥落と南ユダの国の滅亡です。ヘブライ語でこの「哀歌」は「エーカー」と呼ばれ、それは、「どうして?」「なぜだ?」という意味です。イザヤ書1章21節に、イスラエルの堕落について「どうして遊女になってしまったのか、忠実であった町が」と記されています。イザヤ、エレミヤなどの預言者が神の言葉を伝えました。でも、イスラエルの民は預言者の言葉を聞いても罪の意識がなかったのです。やがて、イスラエルの国が滅び、民はバビロン捕囚となり、エルサレムは荒廃しました。イスラエルの国は崩壊し、エルサレムが破壊されて、初めて
2019年11月12日 21:07
聖書 マタイによる福音書21章12-17節
十字架につけられる直前、イエスは厳しい決意をもって、ろばに乗ってエルサレムにお入りになりました。そして、そのまま神殿に直行なさったのです。12-13節「それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒された。そして言われた。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。ところが、あなたたちは、それを強盗の巣にしている』」と。大混乱が生じたことと思います。主イエスには怒りがありました。この神殿に群がる人々に向かって、「あなたたちは、それを強盗の巣にしている」と言われたので
2019年11月10日 19:19
聖書 マタイによる福音書21章1-11節
主イエスは「柔和なお方」です。ろばの背中に乗ってエルサレムにお入りになりました。主イエスのやさしさは「ろばを選ぶやさしさ」です。ろばという意味は「愚か者」という意味を持つものです。ろばみたいな男というと、鈍感な値打ちのない男という意味もありますが、ろばは、背の小さいくせに我慢強い動物です。そのろばに乗った主イエスをユダヤ人たちは、「ダビデの子ホサナ、主の名によって来られた方に、祝福があるように、いと高きところにホサナ」と言いました。神が遣わされた御子イエスを、私たちが真実の王として迎え入れるところから、私たちに真実の自由が生まれます。王が私たちを支配