25/8/3 「 友のため、命を捨てる」 ヨハネ福音書 15:11-17

 これまで主が、弟子たちに何度も繰り返し告げられた、12節の「互いに愛し合いなさい」は、13節の「友のため、自分の命を捨てること、これ以上の大きな愛はない。」に至って、その真髄、究極に達します。

 「友のため、自分の命を捨てる」とは、「イスラエルの救いのためならば、自分が神に呪われた者となってもよい」というパウロや、「同胞の救いのためならば、神の書(命の書)から自分の名が消されても構いません」というモーセの、命懸けの執り成しを想起致します。また、キリスト教の大迫害時代の多くの殉教者たちが、自分の命を捨てでも主への信仰を貫いたのは、キリスト教を継承してゆく未来の″友”、即ち、私たちキリスト者のためでありました。更に「友のため、命を捨てる」とは、かけがえのない大切なもの=自分が命とも思って握りしめている有形ないし無形のものを、その友にために、手放す、捨て去る、差し出すことをも、含意致します。

 私たちにとってのそうした「友」とは、主は誰を指しておられるのでしょう? 14節で「わたしの命ずることを行うならば」との条件下、「互いに愛し合いなさい」との号令下に、教会に集められる兄姉たちも、所謂気の合うお仲間や、無条件に愛せる血縁者ばかりではありません。けれども、教会の兄姉は、他人同士の緩い集合体に見えましても、根幹の主イエス・キリストによって堅くひとつに結ばれている集合体であって、御国の門までひとつとなって歩んでゆく生命体の塊です。ゆえに、そうした私たちが「互いに愛し合う」のは、ごくごく自然な行為で、自分を愛し、イエス様を愛することとイコールなのです。

 16節の「選びと任命」は、「出かけて行って実を結び、その実が残るように」という、伝道の行いと、そのアフターケアを伴うものです。そして、「互いに愛し合う」という主の掟は、「願うものは何でも与えられる」という御約束とワンセットになられています。それゆえ、「命を捨てる愛」は大きな痛みを伴いますが、それにも増して余りある大きな祝福を、主は「”友”なる私たち」に御用意くださっておられるのです。

 

 

説教要旨 「唯一の救い主(第一戒)」出エジプト記19:3-9,20:1-3 

 

 私たちは、主の十字架の下で震えを覚えるように、モーセが授与した十の御言の前に震えを覚えなければなりません。それは、十戒の全てが、ロマ書8章の「私たちすべてのために、その御子をさえ惜しまずに死に渡された御方は、御子と一緒にすべてのものを私たちに賜らないはずがありましょうか」という、人知を超えた御愛に満ちておられるからです。十戒を遵守する者に主は、「私の宝」「祭司の王国」「聖なる国民」という最高の栄誉を約束されています。

 第一戒「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」は、ヘブル語直訳では「あなたが、わたしの面前に、神々を置くことなどありえない!」となります。「神々」とは偶像だけでなく、御使いをも指し、天使礼拝は堅く禁じられている一つです。また偶像は「あなたの宝のあるところにあなたの心もある」と言われているもので、最も堅固で難儀な偶像は「自分自身の“腹”」でありましょう。

 偶像は、「エジプトの国」「奴隷の家」に象徴され、当初は、解放感や自由、満足を与えてくれるように誘いますが、やがて虜にされていることに気付いたときには、抜け出せなくなっています。十戒の導入部は、現実的な状況を突き抜け、改めて認識させるのです、私たちは多少苦しくとも「唯一の救い主」なる主の御前に立ち続けることを選ぶか、虚しい偶像に帰依して、最終的に奴隷の身分に縛られ続けるか、を・・・。

 ソドムを主が滅ぼそうとされた時、アブラハムは執り成しを願い出、主との問答の末、主は宣言されました。「その十人のために、わたしは滅ぼさない」と。この御言は、水元教会の礼拝を守るお一人一人が、この水元の町を始めとする地域一帯の救いのための「正しき十人」であるという宣言にほかなりません。

説教要旨 「主はまことのぶどうの木」 ヨハネ福音書15:1-10

 1節で「わたしはまことのぶどうの木」と宣言される主は、続いて「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな(農夫である)父が取り除かれる。」と述べられ、そこから御父は、怖ろしい裁き主であられるとの先入観が横行しています。

 敢て「先入観」と申しますのは、ぶどうの栽培方法をパソコン検索しますと、いきなり「実を結ばない枝はみな取り除く」という乱暴な工程はなく、むしろ結実のためには、葉の光合成が十分行われるように配慮することが大切で、実がついていないが葉が茂っている枝にも大切な役割があることが記されているからです。例えば、うどん粉病に罹った葉と枝は、丁寧に水で洗ったのち、支柱などを立てて十分日光に当て、風通しがよいように茂った葉を刈り、高く掲げるのです。すると、豊かな結実が与えられるとのことです。

 それは語彙の面からも、「取り除く:アイロー」という動詞には、その訳の上位に「掲げる」という意味があり、1節は「農夫なる御父が(結実のため日光や風が十分当たるよう)高く掲げられる」との訳が、主の御心に適っていると考えられるのです。

 1節は、主に繋がっていながら、実を結ばない信仰者の譬えでしたが、6節は、主に全くつながっていない者の話で、「火に投じる」というのは、裁きの座において、はっきりと右と左へと分けられる様が示されています。ですから、9節において主は「わたしの愛にとどまりなさい」と告げられるのです。この御言は単なる命令ではあられず、「わたしがあなたがたをこれほどまでに愛してきたのだから、あなたがたは、わたしの愛に包まれ、わたしにとどまっていてよいのだよ」という御赦しの御言であられましょう。また、この「とどまる;メノー」という言葉は「待つ、待ち続ける」との意味も擁し、再臨の主を待望するという意味を含意します。

 主の御愛にそのように包まれるにあたって、守るべき掟はやはり「互いに愛し合いなさい」ということであります。1:18で「父のふところにおられる独り子」という関係のお二人の神様は、その境目が分からないほどに、密接な愛の関係を保っておられます。そして私たちも、主とそのような関係を入ることを主は強く望んでおられるのです。

 ぶどうの木なる主とつながっていることこそ、その枝なる私たちのライフラインであり、主にこの世に遣わされて生きてゆく、私たち其々のこよなき意味と目的がそこから発信され、充実した働きのための聖霊の満たしも、そこから注がれてゆくのです。

説教要旨 「主はあなたと共に住む」 ヨハネ福音書 14:15-31

 14節の主の御言「わたしを愛しているならば、わたしの掟を守るはず」の『掟』とは、13:34-35で示された「互いに愛し合いなさい」との主からの御命令です。その御心の背景として主は、21節で、御父の中に御子、御子の中にキリスト者という三重の円環を描かれ、キリスト者は、御父と御子とから発せられる聖霊に、大切に守護され、愛されている「特別な存在」であることを知らしめられました。

 イスカリオテのユダではないユダ(小ヤコブの子タダイ)の「私たちには御自身をあらわそうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、なぜでしょうか」という問いに対し、主のお答えは、主を愛する人(主の御言を守る人)と、主を愛さない者(主の御言を守らない者)とを区別されているとのことで、前者は、御父とイエス様と共に住む「天国の住人」にして頂ける光栄に浴するのでありますから、この区別は実に重大なのです。

    26節の「聖霊は・・わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」の「思い起こす;ヒュポミムネースコー」とは、「意識の上に呼び覚まされる」という使役の意味を持ちます。かつて主が語られていたことと、今、現実に起こっている事柄とがピタッと重なった時に生ずる、驚きを伴う心の動きで、すべては、弁護者なる聖霊の特別な働きによるものです。

 更に、27節で主がもたらされる『平和』とは、この世の平和とは異なり、キリストが共におられる霊的な世界の様です。キリストが御父と共に住まいを設けられ、永遠に共に住んでくださるという至福の世界・・この平和の世界は、主との確実な御約束に伴う平和、父なる神様との和解に基づく平和であります。

 30節で、ここにサタンが再登場してくる兆しの中、主は唯お一人、世の支配者を自称するサタンに立ち向かえる御方、かつ、サタンを逆に用いることのできる立場の御方として、確かに立っておられます。ですから主は、私たちをサタンから守り、真の平和をくださることがお出来になるのです。

 31節にて主は私たちに3つのことを促されます。「知れ」「立て」「行け」と。これらは、教会の礼拝式順に当てはめますと、①招き・悔い改め、②祈り・賛美・証し、③派遣・献身、への促しに相当します。はっきり申せば、神そして自分を知ることは怖いこと、今の一見安定した立場から立ち上がることも怖いこと、更に、行方も知らずに進み行くことはもっと怖いことです。でもそこに、主の御心、主の御愛、主の御臨在がありありとあられれば、心騒がせず、不安にならず、主の御許へ歩みゆくことが適います。

 そうです! 礼拝とはかような冒険への主の促しです、私たちのために十字架と復活を成し遂げられ、私たちに天国での共生を約束される偉大なる主を主人公とするドラマへの参加です、毎主日の礼拝は、言わば大それた挑戦であり、天国の前味わいの時なのです。かような礼拝に招かれ導かれ、心からの賛美と悔い砕かれた心とを主にお捧げするに至った私たちは、真から心が震えて来るではありませんか!


 

説教要旨 「道・真理・命」 ヨハネ福音書14;1-14

 開口一喝「心を騒がせるな!」は、主御自身の内面が掻き立てられた状況で、何度か用いられてきた御言です。13:33で「わたしが行くところに、あなたたちは来ることが出来ない」と告げられた主は、弟子たちの動揺を、まるで手に取るよう理解された上で、この御命令を力強い御励ましとして下されました。「心騒がせずに、さあ、今こそ信仰に立つ時である。」と。

 2節の「住むところ」とは、天上で弟子ないしキリスト者が主と共に宿る所を指し、主はその御用意のために天に昇られると言われますが、それは「住居」の御準備よりむしろ、そこへ迎え入れられる「住人」を、御父と共に選択されるためであられましょう。

 「主よ、どこへ行かれるのですか? その道は?」と問いかけるトマスに、主は「わたしが道、真理、命である。」と並列されます。それは、「このわたしが、真理を辿る唯一の道であり、かつ、永遠の命へと至る唯一の道である。」とも解せられます。

 「真理」を端的に定義するのは難しいですが、神学者ブルトマンは「主イェスの中に神御自身を啓示して、出来事に成りつつある神の現実性そのもの」と、「真理」とは、神概念や神そのものではなく、″進行中の神の出来事”だと語るのです。つまり、人類の救いの御計画、十字架の贖い・貴い犠牲とか、父なる神との和解・神の義の授与とか、究極の御愛・執り成し(の祈り)とか、御子キリストの降臨・現臨・再臨・・そうした私たちの知りうる神の出来事をすべて網羅して「真理」と解せるということでしょう。さすれば、「わたしイェスへの信仰を通してでなければ、天の御父の御許へ行くことは、決してできない」ことに繋がります。

 8節の使徒フィリポの「御父を示してください。」との申し出に、ため息をつかれた態のイェス様は、くどいほどに「私が父の内にあり、父がわたしの内におられる」ことを繰り返されますが、その中にも「真理」の内実が語られています。そして、主は14節でこう告げられます。「わたしの名によって何かを願うならば、(御父の中にいる)わたしがかなえてあげよう。」と。道・真理・命なるイエス様と、そのイエス様の内におられる御父とも、霊的に結ばれている素晴らしい御証しとして・・。   ハレルヤ!

 
 

宣教

2020年01月12日 05:57

2020.1.12 宣教「信仰と愛」

聖書 マタイによる福音書21章28-32節 この譬え話しは、ある人に二人の息子がいた。父親は兄のところに行って「今日、ぶどう園へ行って働きなさい」と命じた。すると、兄は「いやです」と答えたが、考え直して出かけた。父親は弟のところに行って同じように命じた。すると弟は「お父さん、承知しました」と答えたが、実際にはぶどう園には行かなかった。さて、この兄弟の一体どちらがお父さんの望み通りのことをしたのか、とイエスはお尋ねになったのです。この兄と弟の違いはどこにあるでしょうか。兄が「いやです」と答えながら、後に出かけて行ったのは父と共に働くためでした。弟は「お父さん、承知しました」と答えたが出かけなかっ
2020年01月08日 20:12

2020.1.5 宣教「権威者からの問い」

聖書 マタイによる福音書21章23-27節 「わたしも一つ尋ねる。それに答えるなら、わたしも、何の権威でこのようなことをするのか。あなたたちに言おう。ヨハネの洗礼はどこからのものだったのか。天からのものか、それとも人からのものか」主イエスの問いは、ヨハネのバプテスマは神からのものと認めるか、ということでした。この問いを受けた時、権威ある指導者たちは「彼らは論じ合った」とあるように自分たちの中だけで議論をしました。もし人からだと言えば群衆が怖い、そして彼らの結論はイエスを殺すことでした。ですから主イエスの問いに誠実に答えることが出来ないのです。バプテスマを受けることは、神の権威のもとに帰り、自分
2020年01月06日 16:10

信仰と愛

マタイによる福音書21章28-32節 このたとえ話は、ある人に二人の息子がいた。父親は兄のところ行って「今日、ぶどう園へ行って働きなさい」と命じた。すると、その兄の方は「いやです」と答えましたが、考え直して出かけました。弟の方は、「お父さん、承知しました」と答えたが、実際にはぶどう園には行かなかったのです。一体どちらがお父さんの望み通りのことをしたのか、とお尋ねになりました。兄と弟の違いはどこにあるかというと、兄が「いやです」と答えながら、後に出かけて行ったのは、父と共に働くためでした。弟は「お父さん、承知しましたが答えたが、出かけなかった」のは、心を入れ替えなかったのです。父のもとへ帰ること
2019年12月31日 08:06

2020.1.1 宣教「光の中を歩む者」

聖書  ヨハネの手紙第一2章9-11節 明けましておめでとうございます。昨年を振り返りますと、この水こと教会が創立25周年を迎えたことは、神に深い導きがあり、祝福があり、神が水元教会を顧みてくださったことだと感謝をしています。また新しい年を迎え、皆さんと共に神様に従順な者でありたいと願って祈るものです。人間は闇の中に置かれると、「どこへ行くのかわからない」存在となって行きます。光の中を生きるということは愛に生きることです。もう一つのことは聖霊が注がれた人です。聖霊が注がれた人は、愛に満ち喜びの中で生きていける人です。自分の心がいつも平和であり、この地上の生活においても平和のため希望を持ち続けて
2019年12月27日 06:01

2019.12.29 宣教「実を結ぶ生き方」

聖書  マタイによる福音書21章18-22節  21章は1節から主イエスの一週間を記しています。18節以下はその二日目の朝のことです。18節「朝早く、都に帰る途中、イエスは空腹を覚えられた」とありますように、朝の早いときでした。エルサレムに帰る途中、イエスは空腹を覚えられました。その道に一本のいちじくの木が立っていました。しかし、そのいちじくの木は緑の葉が茂っているだけで、実は実っていませんでした。主イエスの飢えを満たす実を実らせていませんでした。そこで、イエスはその木にむかって「今から後いつまでも、お前には実がならないように」と言われると、いちじくの木はたちまち枯れてしまった、と記されていま
2019年12月23日 22:19

実現する神の言葉

ルカによる福音書2章1-20節 ルカによる福音書のイエス降誕物語は、簡潔に事実だけを告げています。1節「そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た」と記されていて、10節以下に天使の言葉が記されています。「天使は言った。『恐れるな。わたしは民全体に与えられる大きな喜びを告げる。』」イエスの誕生日を喜びの福音として皇帝アウグストゥスのもとで生まれたイエスの誕生こそ、神の言葉によって大きな喜びを人々に語り告げられたのだということを、ルカ福音書は強調しています。皇帝アウグストゥスの治世に、もう一人の王がお生まれになった。二人の王のうち、どちらが真実の王として人々の平和を
2019年12月17日 16:25

2019.12.22 宣教「神は共におられる」

聖書 マタイによる福音書1章18-25節 クリスマス礼拝の宣教の題を「神は共におられる」としました。それは、23節「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。」と記されているように、自分の信仰を告白する言葉でもあります。神を信じ、イエス・キリストを救い主と信じる我々には、神が共にいてくださることが力となるからです。イエスは人間としてユダヤの国で生まれました。彼は、一人の幼子となり神の子として、また一人のユダヤ人という人間としてして生きたのです。しかし、彼は自分の民を罪から救う者として、すなわち救い主としての一つの
2019年12月09日 13:46

2019.12.15 宣教「残りの者」

聖書 列王記上19章1-18節 聖書では、ごく少数の「残された者」たち、つまり神を信じている人たちによって、国が再建されていく様が記されています。聖書では「残りの者」という表現をしていますが、これはエリヤの時代の「7千人」のように、神の目的を果たすために、恵みによって残された人々のことです。18節「しかし、わたしはイスラエルに7千人を残す。これは皆、バアルにひざまずかず、これに口づけしなかった者である。」また「残りの者」は特にイザヤ書に記されています。イザヤ書10章20-21節で「その日には、イスラエルの残りの者とヤコブの家の逃れた者とは、再び自分たちを撃った敵に頼ることなく、イスラエルの聖な
2019年12月02日 18:36

2019.12.8 宣教「わたしの魂は渇く」

聖書 詩編42編1-5節  2-3節「枯れた谷に鹿が水を求めるように、神よ、わたしの魂はあなたを求める。神に、命の神に、わたしの魂は渇く。いつ御前に出て、神の御顔を仰ぐことができるのか。」わたしたちは神の恵みばかり求めやすいものですが、神の愛は、わたしが神を愛して行くことにおいて初めて知ることができます。神を求めるとはそういうものではないでしょうか。わたしの魂が神を求めていくことにおいて、すでにわたしのような者を求めていてくださる神を知ることができるのです。「枯れた谷に鹿が水を求めるように」ということは、日照りの中に取り残された鹿にとっては、望むものはただ一滴の水です。谷の水を求めるように、わ
2019年11月27日 06:36

2019.12.1 宣教「イエスの系図」

聖書 マタイによる福音書1章1-6節  イスラエルの歴史は、文字通り「神の救いの歴史」です。系図に示されている一人一人は、それぞれの歴史の中で、あるものは神に背き、ある者は神に帰り、ある者は苦悩と罪の深い淵の底から神を求めて生きた人です。そこには、神の御手があり、神の導きが豊かに与えられたのです。しかし、この系図は私どもと何の縁もない外国人の名前が無意味に並べられているということではなく、一人一人の存在の意味を、神はその救いのわざの中に示しておられます。終末の救い主として、イエスの誕生を指し示しておられるのです。救い主が生まれるということの背後に、長い歴史の中に働いておられる神が、この「すべて

説教要旨

このセクションは空白です。

サイト内検索

お問い合わせ先

水元教会 東京都
葛飾区水元2-5-9
125-0032
03-3607-0910