説教要旨 「唯一の救い主(第一戒)」出エジプト記19:3-9,20:1-3 

 

 私たちは、主の十字架の下で震えを覚えるように、モーセが授与した十の御言の前に震えを覚えなければなりません。それは、十戒の全てが、ロマ書8章の「私たちすべてのために、その御子をさえ惜しまずに死に渡された御方は、御子と一緒にすべてのものを私たちに賜らないはずがありましょうか」という、人知を超えた御愛に満ちておられるからです。十戒を遵守する者に主は、「私の宝」「祭司の王国」「聖なる国民」という最高の栄誉を約束されています。

 第一戒「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」は、ヘブル語直訳では「あなたが、わたしの面前に、神々を置くことなどありえない!」となります。「神々」とは偶像だけでなく、御使いをも指し、天使礼拝は堅く禁じられている一つです。また偶像は「あなたの宝のあるところにあなたの心もある」と言われているもので、最も堅固で難儀な偶像は「自分自身の“腹”」でありましょう。

 偶像は、「エジプトの国」「奴隷の家」に象徴され、当初は、解放感や自由、満足を与えてくれるように誘いますが、やがて虜にされていることに気付いたときには、抜け出せなくなっています。十戒の導入部は、現実的な状況を突き抜け、改めて認識させるのです、私たちは多少苦しくとも「唯一の救い主」なる主の御前に立ち続けることを選ぶか、虚しい偶像に帰依して、最終的に奴隷の身分に縛られ続けるか、を・・・。

 ソドムを主が滅ぼそうとされた時、アブラハムは執り成しを願い出、主との問答の末、主は宣言されました。「その十人のために、わたしは滅ぼさない」と。この御言は、水元教会の礼拝を守るお一人一人が、この水元の町を始めとする地域一帯の救いのための「正しき十人」であるという宣言にほかなりません。

説教要旨 「主はまことのぶどうの木」 ヨハネ福音書15:1-10

 1節で「わたしはまことのぶどうの木」と宣言される主は、続いて「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな(農夫である)父が取り除かれる。」と述べられ、そこから御父は、怖ろしい裁き主であられるとの先入観が横行しています。

 敢て「先入観」と申しますのは、ぶどうの栽培方法をパソコン検索しますと、いきなり「実を結ばない枝はみな取り除く」という乱暴な工程はなく、むしろ結実のためには、葉の光合成が十分行われるように配慮することが大切で、実がついていないが葉が茂っている枝にも大切な役割があることが記されているからです。例えば、うどん粉病に罹った葉と枝は、丁寧に水で洗ったのち、支柱などを立てて十分日光に当て、風通しがよいように茂った葉を刈り、高く掲げるのです。すると、豊かな結実が与えられるとのことです。

 それは語彙の面からも、「取り除く:アイロー」という動詞には、その訳の上位に「掲げる」という意味があり、1節は「農夫なる御父が(結実のため日光や風が十分当たるよう)高く掲げられる」との訳が、主の御心に適っていると考えられるのです。

 1節は、主に繋がっていながら、実を結ばない信仰者の譬えでしたが、6節は、主に全くつながっていない者の話で、「火に投じる」というのは、裁きの座において、はっきりと右と左へと分けられる様が示されています。ですから、9節において主は「わたしの愛にとどまりなさい」と告げられるのです。この御言は単なる命令ではあられず、「わたしがあなたがたをこれほどまでに愛してきたのだから、あなたがたは、わたしの愛に包まれ、わたしにとどまっていてよいのだよ」という御赦しの御言であられましょう。また、この「とどまる;メノー」という言葉は「待つ、待ち続ける」との意味も擁し、再臨の主を待望するという意味を含意します。

 主の御愛にそのように包まれるにあたって、守るべき掟はやはり「互いに愛し合いなさい」ということであります。1:18で「父のふところにおられる独り子」という関係のお二人の神様は、その境目が分からないほどに、密接な愛の関係を保っておられます。そして私たちも、主とそのような関係を入ることを主は強く望んでおられるのです。

 ぶどうの木なる主とつながっていることこそ、その枝なる私たちのライフラインであり、主にこの世に遣わされて生きてゆく、私たち其々のこよなき意味と目的がそこから発信され、充実した働きのための聖霊の満たしも、そこから注がれてゆくのです。

 

説教要旨 「道・真理・命」 ヨハネ福音書14;1-14

 開口一喝「心を騒がせるな!」は、主御自身の内面が掻き立てられた状況で、何度か用いられてきた御言です。13:33で「わたしが行くところに、あなたたちは来ることが出来ない」と告げられた主は、弟子たちの動揺を、まるで手に取るよう理解された上で、この御命令を力強い御励ましとして下されました。「心騒がせずに、さあ、今こそ信仰に立つ時である。」と。

 2節の「住むところ」とは、天上で弟子ないしキリスト者が主と共に宿る所を指し、主はその御用意のために天に昇られると言われますが、それは「住居」の御準備よりむしろ、そこへ迎え入れられる「住人」を、御父と共に選択されるためであられましょう。

 「主よ、どこへ行かれるのですか? その道は?」と問いかけるトマスに、主は「わたしが道、真理、命である。」と並列されます。それは、「このわたしが、真理を辿る唯一の道であり、かつ、永遠の命へと至る唯一の道である。」とも解せられます。

 「真理」を端的に定義するのは難しいですが、神学者ブルトマンは「主イェスの中に神御自身を啓示して、出来事に成りつつある神の現実性そのもの」と、「真理」とは、神概念や神そのものではなく、″進行中の神の出来事”だと語るのです。つまり、人類の救いの御計画、十字架の贖い・貴い犠牲とか、父なる神との和解・神の義の授与とか、究極の御愛・執り成し(の祈り)とか、御子キリストの降臨・現臨・再臨・・そうした私たちの知りうる神の出来事をすべて網羅して「真理」と解せるということでしょう。さすれば、「わたしイェスへの信仰を通してでなければ、天の御父の御許へ行くことは、決してできない」ことに繋がります。

 8節の使徒フィリポの「御父を示してください。」との申し出に、ため息をつかれた態のイェス様は、くどいほどに「私が父の内にあり、父がわたしの内におられる」ことを繰り返されますが、その中にも「真理」の内実が語られています。そして、主は14節でこう告げられます。「わたしの名によって何かを願うならば、(御父の中にいる)わたしがかなえてあげよう。」と。道・真理・命なるイエス様と、そのイエス様の内におられる御父とも、霊的に結ばれている素晴らしい御証しとして・・。   ハレルヤ!

 
 

説教要旨 「主はあなたと共に住む」 ヨハネ福音書 14:15-31

 14節の主の御言「わたしを愛しているならば、わたしの掟を守るはず」の『掟』とは、13:34-35で示された「互いに愛し合いなさい」との主からの御命令です。その御心の背景として主は、21節で、御父の中に御子、御子の中にキリスト者という三重の円環を描かれ、キリスト者は、御父と御子とから発せられる聖霊に、大切に守護され、愛されている「特別な存在」であることを知らしめられました。

 イスカリオテのユダではないユダ(小ヤコブの子タダイ)の「私たちには御自身をあらわそうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、なぜでしょうか」という問いに対し、主のお答えは、主を愛する人(主の御言を守る人)と、主を愛さない者(主の御言を守らない者)とを区別されているとのことで、前者は、御父とイエス様と共に住む「天国の住人」にして頂ける光栄に浴するのでありますから、この区別は実に重大なのです。

    26節の「聖霊は・・わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」の「思い起こす;ヒュポミムネースコー」とは、「意識の上に呼び覚まされる」という使役の意味を持ちます。かつて主が語られていたことと、今、現実に起こっている事柄とがピタッと重なった時に生ずる、驚きを伴う心の動きで、すべては、弁護者なる聖霊の特別な働きによるものです。

 更に、27節で主がもたらされる『平和』とは、この世の平和とは異なり、キリストが共におられる霊的な世界の様です。キリストが御父と共に住まいを設けられ、永遠に共に住んでくださるという至福の世界・・この平和の世界は、主との確実な御約束に伴う平和、父なる神様との和解に基づく平和であります。

 30節で、ここにサタンが再登場してくる兆しの中、主は唯お一人、世の支配者を自称するサタンに立ち向かえる御方、かつ、サタンを逆に用いることのできる立場の御方として、確かに立っておられます。ですから主は、私たちをサタンから守り、真の平和をくださることがお出来になるのです。

 31節にて主は私たちに3つのことを促されます。「知れ」「立て」「行け」と。これらは、教会の礼拝式順に当てはめますと、①招き・悔い改め、②祈り・賛美・証し、③派遣・献身、への促しに相当します。はっきり申せば、神そして自分を知ることは怖いこと、今の一見安定した立場から立ち上がることも怖いこと、更に、行方も知らずに進み行くことはもっと怖いことです。でもそこに、主の御心、主の御愛、主の御臨在がありありとあられれば、心騒がせず、不安にならず、主の御許へ歩みゆくことが適います。

 そうです! 礼拝とはかような冒険への主の促しです、私たちのために十字架と復活を成し遂げられ、私たちに天国での共生を約束される偉大なる主を主人公とするドラマへの参加です、毎主日の礼拝は、言わば大それた挑戦であり、天国の前味わいの時なのです。かような礼拝に招かれ導かれ、心からの賛美と悔い砕かれた心とを主にお捧げするに至った私たちは、真から心が震えて来るではありませんか!

 

宣教

2019年09月10日 16:13

2019.9.15 宣教「最も偉大なもの」

聖書 マタイによる福音書20章17-28節 17節から19節までに三回目の受難の予告が記されています。19節「異邦人に引き渡す。人の子を侮辱し、鞭打ち、十字架につけるためである」と。これまではただ「殺される」という表現でしたが、ここでは、十字架につけられ、神に呪われた罪人として殺されると言われました。「そして、彼は三日目によみがえる」と復活予告が続きます。この復活の預言を聞いたゼベダイの子の母が、20節「その時、ゼベダイの息子たちの母が、その二人の息子と一緒にイエスのところに来て、ひれ伏し、何かを願おうとした」のです。ゼベダイの子とはヤコブとヨハネの二人です。その母が、「何が望みか」と問われて
2019年09月03日 15:33

2019.9.8 宣教「信仰の同労者」

聖書 エフェソの信徒への手紙4章1-6節  本日の礼拝は、「一日修養会」のプログラムの中に組み込まれています。午後からの修養会では「信仰の同労者」を主題にして、副題に「わたしにできること」をみんなで考えて行くことになりました。水元教会がこれからどのように地域社会と交わることが出来るのか自分の問題として捉えて考えて行きたいと思います。教会が一つの計画が立てられ実行していきます場合、最も大切なことは、それにかかわる人が心を一つにしてということです。パウロは、1-4節では、お互いが出来るだけ謙虚で、柔和で、寛容で、愛情をもって、忍び合い、平和の絆で結ばれていくことを申しました。4節「体は一つ、霊は一
2019年08月28日 05:58

2019.9.1 宣教「天国の労働者」

聖書 マタイによる福音書20章1-16節  一日中働いた人が、半日しか働かなかった人や1時間しか働かなかった人よりも多くの賃金を得るのは当たり前だ、それが世間の常識だと私たちは考えてしまいます。しかし、この物語の内容は全く違いました。賃金は一日中働いた人より、1時間しか働かなかった人から順に同じ1デナリオンが支払われたのです。そこで、一日中働いた人が不平を言いました。ぶどう園の主人は15節「わたしの気前のよさをねたむのか」と言われています。ここに一日中働いていた人たちの妬みが問題にされました。この主人は、神を表すものです。ぶどう園は、朝早く連れて行った者だけでもう十分に労働力は確保できていたか
2019年08月25日 13:59

2019.8.25 宣教「今の時を逃げずに生きる」

聖書 旧約聖書 ヨナ書1章1-16節 今朝は藤垣昭雄牧師が佐野教会で礼拝奉仕のため、安増幸子牧師による宣教です。 預言者ヨナは神様の呼びかけから逃れようと、ニネベの町と反対のタルシュシュ行きの船に乗り込みます。しかし船は荒れ、くじに当たったヨナは海に投げこまれてしまいます。大きな魚に飲み込まれたヨナは三日三晩主に祈りをささげます。やがて陸に吐き出されたヨナに主は再びニネベの町に行くよう命じられ、ヨナはニネベの町に「悔い改めなければ40日でニネベの都は滅びる」と呼びかけます。するとニネベの人々は神を信じ悪から遠ざかりニネベの町は災いから逃れることが出来ました。しかし、この出来事にヨナは不満を抱き
2019年08月16日 05:59

2019.8.18 宣教「青年の決断」

聖書 マタイによる福音書19章13-29節 この金持ちの青年の記事は、永遠の命を得るために、この青年は何をすべきかという質問です。2000年前に、イエスの前で思い悩んだ一人の青年の悩みは、現在も私たちの悩みでもあります。若い心は、たとえばある思想に動かされる人もあり、あるいは芸術に、科学に、政治に動かされていくこともあります。この青年はイエスの前に立ちました。その時、イエスが、「すべてを捨ててわたしに従いなさい」と言われました。また「あなたに欠けているものがまだ一つある」と言われたのは、まさに青年にこの神への畏敬を迫られたことにほかなりません。不幸にして青年はイエスの言葉に、理解することなく、
2019年08月12日 06:41

青年の決断

マタイによる福音書19章13-29節 永遠の命を津gyためには、すなわち真理を把握するために、いったいこの青年は何をすべきかという質問です。2000年前に、イエスの前で思い悩んだ一人の青年の悩みは、現在の私たちの悩みでもあります。若い心は、いつもいろいろなことに心が揺れ動きます。芸術、科学、スポーツに動かされていくこともあります。しかし、多くの人は神を畏れる心が見失われています。この青年はイエスの前に立ちました。その時、イエスが「すべてを捨ててわたしに従いなさい」と言われました。また「あなたにかけているものがまだ一つある」と言われたのは、青年にこの神への畏れを迫られたことでした。不幸にして青年
2019年08月08日 19:49

2019.8.11 宣教「理想の結婚」

聖書  マタイによる福音書19章1-12節 6節「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」すると、7節でファリサイ派の人達が「では、なぜ、モーセは、離縁状を渡して離縁するように命じたのですか」と、すなわち、モーセは離婚をする権利を夫に認めているではないか。と問いました。そこでイエスは8節「あなたたちの心が頑固なので、モーセは妻を離縁することを許したのであって、初めからそうだったわけではない」この「初めから」というのは、4節に出て来る「創造主は初めから」という言葉と同じです。旧約聖書の創世記2章にあるように、神は天地を造り、人を造られた。そして「主なる神は言われた。『人が独りで
2019年07月30日 12:56

2019.8.4 宣教「赦しの限界」

聖書 マタイによる福音書18章21-34節 21節「そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。『主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。7回までですか』イエスは言われた。『あなたに言っておく。7回どころか7の70倍までも赦しなさい。』」ペトロの「7回までですか」という問いに対して主イエスは「7回どころか7の70倍までも赦しなさい」とお答えになりました。ユダヤでは7という数字は完全数です。その7の70倍というのは、無限に赦しなさいということです。そこで23節以下の天の国のたとえ話を始められました。ある僕が、王から膨大な金額の借金を赦してもらったにもかかわらず、その後
2019年07月25日 15:43

2019.7.28 宣教「老いを豊かに」

聖書 コヘレトの言葉12章1-14節 「コヘレト」という言葉の意味は説教者、または教師を意味します。これを書いたのは1章1節に「エルサレムの王、ダビデの子」と記されていることから、伝統的にソロモンとされています。ソロモンはイスラエルの3代目の王で、栄華を極めました。ソロモンは若い頃に「雅歌」を書き、成熟期に「箴言」を、そして老いてから「コヘレト」を書いたと言われています。が、コヘレト1章2節には「何という空しさ、すべては空しい」と書き出しているのです。また、この「空しい」と言う言葉が35回も出ています。しかし、今日のテキスト、コヘレトの最後の章の12章1節には「青春の日々こそ、お前の創造主に心
2019年07月21日 06:24

2019.7.21 宣教「愛こそ力」

聖書 マタイによる福音書18章15-20節  今朝のテキストは、15節の「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい」という言葉から始まります。イエスが教会について大切なことを語っておられるところです。どういう罪を語られているのか分かりませんが、罪というものがとても重く、重大なものだということを集中して語られました。罪は教会にとって大きな主題です。教会が罪についてどう処置するかということを、集中して語っておられます。教会には、立派な愛の満ちた信仰深い人ばかり集まるところだという思いがあるだけに、教会の仲間が罪を犯したら、どうしてよいのか分からなくなります。ここで主

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