宣教

2019年08月25日 13:59

2019.8.25 宣教「今の時を逃げずに生きる」

聖書 旧約聖書 ヨナ書1章1-16節 今朝は藤垣昭雄牧師が佐野教会で礼拝奉仕のため、安増幸子牧師による宣教です。 預言者ヨナは神様の呼びかけから逃れようと、ニネベの町と反対のタルシュシュ行きの船に乗り込みます。しかし船は荒れ、くじに当たったヨナは海に投げこまれてしまいます。大きな魚に飲み込まれたヨナは三日三晩主に祈りをささげます。やがて陸に吐き出されたヨナに主は再びニネベの町に行くよう命じられ、ヨナはニネベの町に「悔い改めなければ40日でニネベの都は滅びる」と呼びかけます。するとニネベの人々は神を信じ悪から遠ざかりニネベの町は災いから逃れることが出来ました。しかし、この出来事にヨナは不満を抱き
2019年08月16日 05:59

2019.8.18 宣教「青年の決断」

聖書 マタイによる福音書19章13-29節 この金持ちの青年の記事は、永遠の命を得るために、この青年は何をすべきかという質問です。2000年前に、イエスの前で思い悩んだ一人の青年の悩みは、現在も私たちの悩みでもあります。若い心は、たとえばある思想に動かされる人もあり、あるいは芸術に、科学に、政治に動かされていくこともあります。この青年はイエスの前に立ちました。その時、イエスが、「すべてを捨ててわたしに従いなさい」と言われました。また「あなたに欠けているものがまだ一つある」と言われたのは、まさに青年にこの神への畏敬を迫られたことにほかなりません。不幸にして青年はイエスの言葉に、理解することなく、
2019年08月12日 06:41

青年の決断

マタイによる福音書19章13-29節 永遠の命を津gyためには、すなわち真理を把握するために、いったいこの青年は何をすべきかという質問です。2000年前に、イエスの前で思い悩んだ一人の青年の悩みは、現在の私たちの悩みでもあります。若い心は、いつもいろいろなことに心が揺れ動きます。芸術、科学、スポーツに動かされていくこともあります。しかし、多くの人は神を畏れる心が見失われています。この青年はイエスの前に立ちました。その時、イエスが「すべてを捨ててわたしに従いなさい」と言われました。また「あなたにかけているものがまだ一つある」と言われたのは、青年にこの神への畏れを迫られたことでした。不幸にして青年
2019年08月08日 19:49

2019.8.11 宣教「理想の結婚」

聖書  マタイによる福音書19章1-12節 6節「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」すると、7節でファリサイ派の人達が「では、なぜ、モーセは、離縁状を渡して離縁するように命じたのですか」と、すなわち、モーセは離婚をする権利を夫に認めているではないか。と問いました。そこでイエスは8節「あなたたちの心が頑固なので、モーセは妻を離縁することを許したのであって、初めからそうだったわけではない」この「初めから」というのは、4節に出て来る「創造主は初めから」という言葉と同じです。旧約聖書の創世記2章にあるように、神は天地を造り、人を造られた。そして「主なる神は言われた。『人が独りで
2019年07月30日 12:56

2019.8.4 宣教「赦しの限界」

聖書 マタイによる福音書18章21-34節 21節「そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。『主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。7回までですか』イエスは言われた。『あなたに言っておく。7回どころか7の70倍までも赦しなさい。』」ペトロの「7回までですか」という問いに対して主イエスは「7回どころか7の70倍までも赦しなさい」とお答えになりました。ユダヤでは7という数字は完全数です。その7の70倍というのは、無限に赦しなさいということです。そこで23節以下の天の国のたとえ話を始められました。ある僕が、王から膨大な金額の借金を赦してもらったにもかかわらず、その後
2019年07月25日 15:43

2019.7.28 宣教「老いを豊かに」

聖書 コヘレトの言葉12章1-14節 「コヘレト」という言葉の意味は説教者、または教師を意味します。これを書いたのは1章1節に「エルサレムの王、ダビデの子」と記されていることから、伝統的にソロモンとされています。ソロモンはイスラエルの3代目の王で、栄華を極めました。ソロモンは若い頃に「雅歌」を書き、成熟期に「箴言」を、そして老いてから「コヘレト」を書いたと言われています。が、コヘレト1章2節には「何という空しさ、すべては空しい」と書き出しているのです。また、この「空しい」と言う言葉が35回も出ています。しかし、今日のテキスト、コヘレトの最後の章の12章1節には「青春の日々こそ、お前の創造主に心
2019年07月21日 06:24

2019.7.21 宣教「愛こそ力」

聖書 マタイによる福音書18章15-20節  今朝のテキストは、15節の「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい」という言葉から始まります。イエスが教会について大切なことを語っておられるところです。どういう罪を語られているのか分かりませんが、罪というものがとても重く、重大なものだということを集中して語られました。罪は教会にとって大きな主題です。教会が罪についてどう処置するかということを、集中して語っておられます。教会には、立派な愛の満ちた信仰深い人ばかり集まるところだという思いがあるだけに、教会の仲間が罪を犯したら、どうしてよいのか分からなくなります。ここで主
2019年07月09日 15:32

2019.7.14 宣教「迷い出た羊」

聖書 マタイによる福音書18章10-14節  今朝のテキストは主イエスのたとえ話としてよく知られています。12節「あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか」羊はわがままで、道に迷いやすく弱い動物です。ユダヤ人にとって羊は自分の命のように大切にしていました。自分の羊が一匹でもいなくなったということは大変なことだったのです。捜しに行くのは当たり前のようですが、しかし同時に、羊飼いにとっては遺された九十九匹もまた極めて大切なものだということです。迷子になった一匹の羊にも、大切な弟子たちにも、深いキ
2019年07月01日 11:44

2019.7.7 宣教「天国でいちばん偉い者」

聖書 マタイによる福音書18章1-11節 「いったいだれが、天国でいちばん偉いのでしょうか」という質問は、弟子たちがいつも考えていたことだと思います。主イエスは3節で「心を入れかえて子どものようにならなければ、決して天の国に入ることは出来ない。」と言われました。私たちの毎日の生活の中で「子どものように」という生き方をして生きている人はどれだけいるでしょうか。そういう雰囲気を漂わせる人はそれほど多くいないのではないでしょうか。子どもは無邪気で純粋で純真です。そこに値打ちがあります。大人になると、だんだんそこから離れてしまいます。子どもが偉いのではありません。4節「自分を低くして、この子どものよう
2019年06月25日 14:26

2019.6.30 宣教「神の言葉の欠乏」

聖書 アモス書8章1-14節  ヘブライ語で「果物」は(カイツ)と言い、「終わり」は(ケーツ)です。この二つの言葉は、よく似ています。イスラエルの民が果物の籠を神の前に置いて、これが私たちの幸せ、神から祝福を受けているしるしですと言ったとき、神は、いや違う。それは滅びのしるしだ、そのように言われたのです。アモスがこれを語ったとき誰も耳を傾けた者はいません。しかし、アモスの言葉に新しいものは何もありません。ただ神を愛すること。隣人を愛すること、偽りを言ってはならない、ごまかしてはならないということです。これは誰もが知っている神の掟であり、こういうことは人間の常識でもあります。まことに単純な真理を

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