宣教

2018年11月14日 06:09

2018.11.18 宣教「麦と毒麦」

聖書 マタイによる福音書13章24-30節  伝道が前進していく中で、初代のマタイの教会においても、混乱が生じました。天の国は「からし種のようなもの」です。小さな種が伸びて枝をはるように、伝道は素晴らしく前進しました。しかし、異物が混じってきました。教会の成長が、外からよりも内部から崩れる危険にさらされているのです。教会もまた世間と同じと思うようになります。教会になぜ毒麦が生えてしまうのか?このマタイによる福音書は、そういう闘いの中でも、主イエスの言葉をほめたたえています。 「天の国は、良い種を自分の畑に蒔いておいた人のようである」というたとえ話から始まります。主人の言う通りに、選ばれた良い種
2018年11月06日 15:40

2018.11.11 宣教「御言葉に聴く者」

聖書 マタイによる福音書13章1-23節  3-9節の「たとえ話」では「蒔かれる種」も「種の蒔き方」も同じです。ある種が丁寧に蒔かれ、他の種は乱暴に蒔かれたというのではありません。どの種も土に「落ちた」だけです。ただ落ちた種を受け止める「土地」の違いがありました。最初の土は「道端」です。おそらく畑のそばのあぜ道に落ちたのでしょう。第2の土は「石だらけで土の少ないところ」です。岩の上に土の層が薄くあるだけのところで土の少ない所です。第3の土は「茨の間」です。「茨が伸びてそれをふさいでしまった」というのですから、茨の根が残っていた土地でした。そして、第4は「良い土地」です。ここに落ちた種は「百倍、
2018年10月30日 14:31

2018.11.4 宣教「天の国を知る者」

聖書 マタイによる福音書13章31-52節  主イエスは、天国について弟子たちに教えるために、いくつものたとえを話されました。31節「天の国はからし種に似ている」33節「天の国はパン種に似ている」とは、からし種もパン種も小さなものですが、その小さなものが、大きな木を生み出したり、物を大きく膨らませたりするということです、このたとえのように、神の支配の始まりは非常に小さいということです。目立たない、人々が無視してしまうほどに小さいものです。それが大きく育っていくのです。キリストのこの地上での活動は3年ほどでした。活動の場所は、パレスチナの小さな一部分で、キリストに影響を受けたのはわずかの人たちで
2018年10月24日 15:02

2018.10.28 宣教「神の沈黙」

聖書 ヨブ記31章1-40節  ヨブ記の主題は、なぜ、正しく生きる人の苦しみを神は沈黙しているのかという問いであると言えます。私たちにとって、最も不安な時は、神が沈黙しているときです。しかし、神はいつまでも沈黙なさいません。人生のさまざまな苦難に耐え、打ち勝っていくことが出来るのは、私どもの神への信頼、神への信仰の確立によって、苦しみに勝って余りあるという経験をしていくことが出来るのです。ヨブ記において神はどのように登場するのでしょうか。ヨブ記は42章までありますが、始めの1章と2章、終わりの38章から42章でしか神は語っていません。ヨブ記の主要部分であります3章から37章までは、神は一言も語
2018年10月22日 08:37

2018.10.21 宣教「ヨナ書の三つの霊的な意味」

聖書 ヨナ書4章1-11節 本日は、山梨県峡南教会より森容子牧師をお招きしての特別伝道礼拝でした。 宣教は副題としてールターに学ぶーとなっております。すなわち、旧約聖書のヨナ書を宗教改革者ルターがどのようにヨナ書を読み、解き明かしていたかというお話ですが、今までは子ども向きのヨナの物語としてとらえていたこの旧約聖書の物語の中に、ユダヤ教から、キリスト教へとつながる大切なポイントを非常に的確にお話し下さいました。その論理的な説き明しは目からウロコ的な新しい発見として、私たちの心に深い味わいを与えられたように思います。 森容子先生、大変に興味深いお話を本当にありがとうございました。
2018年10月09日 06:02

2018.10.14 宣教「良い木と良い実」

聖書  マタイによる福音書12章33-37節  私たちは、しばしば、あのようなことを言わなけばよかったとのにと後悔することがあります。また、あの人は口は悪いが、根は決して悪い人ではないから許してあげよう、と思うことがあります。しかし、今朝のテキストの34節の終わりの方でイエスは「人の口からは、心にあふれていることが出て来るのである」と言っておられます。水が自然にわきあふれて出て来るのと同じように、私たちの心の中にあるものが、言葉となってあふれて出ているのだと言われるのです。言葉には心が映っています。その「心」は、それは神に対して申し開きをしなければならない心です。私たちは自分だけの心を持ってい
2018年10月04日 10:51

2018.10.7 宣教「歴史の支配者」

水元教会創立24周年記念礼拝 聖書 マタイによる福音書12章38-45節  主イエスは、このテキストで39節「よこしまで神に背いた時代」41節「今の時代」42節「今の時代」45節「悪い時代」というように「時代」という言葉を多く使われています。主イエスの時代とはどういう時代であったか、私どもの生きるこの「時代」とはどういう時代であるのかを考えてみたいと思います。「時代」とはそこに生まれて生きている人のことであって、すなわち私ども自身のことです。この時代を作っているのはこの時代に生きている私たち自身です。キリスト者も現代に生きています。時代を語るということは、自分を語ることでもあります。 43節の
2018年09月24日 17:12

2018.9.30 宣教「わたしを贖う方」

聖書 ヨブ記19章1-29節  25-27節で「私は知っている、わたしを贖う方は生きておられ、ついには塵の上に立たれるであろう。この皮膚が損なわれようとも、この身をもって、わたしは神を仰ぎ見るであろう。このわたしが仰ぎ見る、ほかならぬこの目で見る。腹の底から焦がれ、はらわたは絶え入る」と、ヨブは絶望の中で、このように語り、彼の死後に知人や親せきがヨブの名誉回復をしてくれることを望みました。25節にある「わたしを贖う者」というのは、自分にとって一番血の濃い近親者で「身請け人」になってくれる人のことです。「最後まで私の見方になってくれる私の身請け人」という意味が込められています。「ついには塵の上に
2018年09月18日 22:50

2018.9.23 宣教「聖霊と悪霊」

聖書 マタイによる福音書12章15-32節  32節に「人の子に言い逆らう者」と「聖霊に言い逆らう者」という二つの逆らう者の罪が平行して語られています。「人の子」とは、主イエスのことです。主イエスに対して言い逆らうこととは別に「聖霊に言い逆らう者」と語られているのです。「人の子に言い逆らう罪」とは何でしょうか。またさらに重い「聖霊に言い逆らう者」とは何でしょうか。ここに非常に難解な戸惑いが出て来ます。  主イエスがこの言葉を語られた相手はファリサイ派の人です。彼らは、主イエスの行っていることは、悪魔、サタンのわざであるということから始まりました。22節「そのとき、悪霊に取りつかれてて目が見えず
2018年09月12日 22:17

2018.9.16 宣教「七日の旅路」

聖書 マタイによる福音書12章1-14節  安息日とは、神が天地創造のわざをされた七日目にお休みになったということに起源します。人々はその神の創造のみわざを賛美しました。そして、7日間のうち、1日だけ休むことが出来るこの安息日に、人々は神の創造のみわざを思い起こし、神の救いのわざを待ち望む思いを新たにしたのです。そのようにして、ユダヤの人たちは一生懸命に安息日を厳格に守りました。ユダヤ人が安息を重んじる伝統は、想像以上です。戦争になっても、安息日には戦争を休んで、そのすきをつかれて負けた記録が残っています。  8節に「人の子は安息日の主なのである」と記されています。この人の子とは、主イエスご自

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