2018年09月24日 17:12
聖書 ヨブ記19章1-29節
25-27節で「私は知っている、わたしを贖う方は生きておられ、ついには塵の上に立たれるであろう。この皮膚が損なわれようとも、この身をもって、わたしは神を仰ぎ見るであろう。このわたしが仰ぎ見る、ほかならぬこの目で見る。腹の底から焦がれ、はらわたは絶え入る」と、ヨブは絶望の中で、このように語り、彼の死後に知人や親せきがヨブの名誉回復をしてくれることを望みました。25節にある「わたしを贖う者」というのは、自分にとって一番血の濃い近親者で「身請け人」になってくれる人のことです。「最後まで私の見方になってくれる私の身請け人」という意味が込められています。「ついには塵の上に
2018年09月18日 22:50
聖書 マタイによる福音書12章15-32節
32節に「人の子に言い逆らう者」と「聖霊に言い逆らう者」という二つの逆らう者の罪が平行して語られています。「人の子」とは、主イエスのことです。主イエスに対して言い逆らうこととは別に「聖霊に言い逆らう者」と語られているのです。「人の子に言い逆らう罪」とは何でしょうか。またさらに重い「聖霊に言い逆らう者」とは何でしょうか。ここに非常に難解な戸惑いが出て来ます。
主イエスがこの言葉を語られた相手はファリサイ派の人です。彼らは、主イエスの行っていることは、悪魔、サタンのわざであるということから始まりました。22節「そのとき、悪霊に取りつかれてて目が見えず
2018年09月12日 22:17
聖書 マタイによる福音書12章1-14節
安息日とは、神が天地創造のわざをされた七日目にお休みになったということに起源します。人々はその神の創造のみわざを賛美しました。そして、7日間のうち、1日だけ休むことが出来るこの安息日に、人々は神の創造のみわざを思い起こし、神の救いのわざを待ち望む思いを新たにしたのです。そのようにして、ユダヤの人たちは一生懸命に安息日を厳格に守りました。ユダヤ人が安息を重んじる伝統は、想像以上です。戦争になっても、安息日には戦争を休んで、そのすきをつかれて負けた記録が残っています。
8節に「人の子は安息日の主なのである」と記されています。この人の子とは、主イエスご自
2018年09月04日 16:28
聖書 ローマの信徒への手紙5章1-11節
今朝のテキストは、主イエス・キリストの父なる神が、どのような救いを私どもに用意してくださっているか、救いをすでに実現してくださったかを学ぶことが出来る個所です。
パウロは、私たちが神からいただく救いとは、神によって義とされることだと語り続けています。神によって義とされるということは、正しい人間と認められたということです。すなわち「わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている」とパウロは言っています。これは神と私どもの間に平和が成り立つ、平和な関係が生まれるということです。しかし、私たちも時には自分には平和が感じられない、不安が消え
2018年08月28日 06:42
聖書 マタイによる福音書11章28-30節
「安らぎを得られる」と言う言葉の前に、イエス・キリストは3つのことを命じられました。第一は「わたしのもとに来なさい」という命令です。第二は「わたしのくびきを負いなさい」第三は「わたしに学びなさい」という命令です。イエスを通してしか、神と救いとを知ることが出来ないのであれば、イエスのもとに来ることが絶対に必要なことです。さらに「疲れた者、重荷を負う者は」「だれでも」招かれています。選ばれた人だけではなくて、すべての人が招かれているのです。その招きに応じるか、応じないかは、その責任はどう見ても当人自身です。「学びなさい」と言うことですが、何を学ぶのでし
2018年08月22日 16:45
聖書 ヨブ記4章1-21節
今まで全く崩れなかったヨブが、3章において一瞬のうちに崩れていきました。かつては知恵ある、あるいは信仰者として尊敬を受けていたヨブの嘆きを聞いて友人たちは驚くのです。3人の友人が登場しますが、一番年長者はエリファズです。彼には何とかしなくてはいけないとの思いがつのっていきます。4章7節「考えてみなさい。罪のない人が滅ぼされ、正しい人が絶たれたことがあるかどうか。」すなわち、きっとあなたは隠れたところで何か悪いことをしているのだろうというのです。彼は自分の弁論の根拠を自分の体験から語ります。私たちも悲しみに打ちひしがれる人に何といえばよいか、というのは非常に難しい問
2018年08月15日 16:45
聖書 マタイによる福音書11章25-27節
26節「そうです。父よ、これは御心に適うことでした」と言われまし。神は御心を持って、恵みを持って私どもを救うために選んでくださいました。神はどのようにして、その御心を表されたのでしょうか。25節「これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。」ここに出て来る「知恵ある者や賢い者」とは、当時の律法学者、ファリサイ人と言われた信仰熱心で聖書に詳しい、律法について権威を持って語ることのできる人のことです。なぜ、彼らは主イエスを退けたのでしょうか。町の人々が主イエスの言葉を聞いても、彼らは受け入れなかったのです。
2018年08月07日 08:08
聖書 マタイによる福音書11章20-24節
21節「コラジン、お前は不幸だ。ベトサイダ、お前は不幸だ」この不幸と言う言葉は、主イエスの悲しみの声であり、うめきの声という意味です。23節の「カファルナウム、お前は、天にまで上げられるとでも思っているのか。陰府にまで落とされるのだ」と。主イエスが最も多くのわざと言葉を語りかけられたこれらの町々が、主イエスを受け入れなかったという事実があるのです。そこでこの悲しみの言葉を語られて、今、主イエスはここに改めて神に身を向けられました。それは25節「そのとき、イエスはこう言われました。『天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者
2018年08月01日 06:46
聖書 マタイによる福音書11章1-19節
今日の個所は洗礼者ヨハネの問いに始まります。2-3節「ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。そこで、自分の弟子たちを送って、尋ねさせた。『来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たねばなりませんか。』」つまりイエスという方は、本当にメシアなのでしょうか、という疑問です。獄に捕らわれの身となっているヨハネは真剣に問いました。イエスはヨハネとその弟子たちに4-5節「イエスはお答えになった。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえな
2018年07月25日 16:37
聖書 ヨブ記3章1-26節
ヨブ記1,2章にはヨブの試練が記されていますが、試練とは物質的なもの、財産であるとか、目に見える幸福の要素を初めに崩壊させていきます。具体的に家族が事故にあう、病気になる。こういう試練は毎日のように行われているのであって、いつ自分の身に起こるか分かりません。
ヨブ記は1章の13節には「彼が話し終わらないうちに」、また17節に「彼が話し終わらないうちに」、18節に「彼が話し終わらないうちに」と次から次に連続して災害が起こる様子が記されています。2章9節において今度は妻の要求があります。「どこまで無垢でいるのですか。神を呪って死ぬ方がましでしょう」と。それに対して、