2018年04月13日 06:22
聖書 マタイによる福音書8章23-27節
23節「イエスが舟に乗りこまれると、弟子たちも従った」とあります。わたしたちの人生は航海のようなものです。それはその出発の時から、既に人生の旅の道連れとなる親があり、仲間も一緒ですが、それだけでなく、私たちクリスチャンは一人ひとりの人生の旅に、復活のイエスもまた共にいてくださるのです。しかし、私たちの人生は常に春ののどかな日の連続ではあり得ません。24節「そのとき、湖に激しい嵐が起こり、舟は波にのまれそうになった」。人生の嵐は突如として襲いかかって来ます。病気のことも、苦しみも、愛する人との別れ、このようなものはわたしたちが求めて与えられたものではな
2018年04月06日 06:55
聖書 フィリピの信徒への手紙4章4-7節
水元教会では、2018年度の教会標語となる聖句を皆さんから応募していただきました。そして、2月4日の全体協議会で投票した結果、このフィリピの信徒への手紙4章6節の聖書の言葉が選ばれました。
4章2-3節に、フィリピの教会にあるエボディアとシンティケという二人の婦人が熱心に教会生活をしておられたわけですが、この二人に主にあって同じ思いを抱いてほしいと願っています。二人の婦人の間に一致がないということを、パウロは非常に心配をしているのです。それは二人の間に他者へに深い愛情が欠けているということを指摘していると思いますが、教会の中で共にくびきを負うという
2018年03月27日 06:05
聖書 マタイによる福音書28章1-10節
主イエス・キリストが十字架につけられて死なれた後、それを取り囲む人たちにとっては、様々な反応があったことが福音書に記されています。弟子たちはガリラヤに帰り、ローマの兵隊はそこを立ち去りました。キリストを十字架にかけて殺した彼らには勝利感は何もありませんでした。キリストがエルサレム入城したときに、大きな声でホサナと言って喜んで迎えた群衆は、キリストの喪失でした。キリストの死は、確かに闇の中に引きずり込んでいきました。「わたしは三日目によみがえる」と言われたキリストの言葉が、新しい恐れとなって彼らの心を揺さぶりました。1節「さて、安息日が終わって、週の初
2018年03月21日 21:05
聖書 マタイによる福音書27章32-44節
ここにはキリストの十字架の道のことが書かれています。兵士たちは出て行くと、シモンというキレネ人に出会った。キレネ人とはアフリカの北海岸にあるところですが、そこからやって来たシモンという男です。おそらくこの男はエルサレムに巡礼にやって来たのではないかと思われます。過越しの日に、多くの人々の中からキリストが、十字架を負っている姿を見て、彼は驚いて、そのキリストの十字架の後について行ったのでしょう。ローマ兵はこの田舎者でたくましい男に十字架を背負わせました。彼は、やがてカルバリの丘で、キリストが十字架につけられて、そこで語られたことばを聞いたかもしれない
2018年03月12日 13:53
聖書 マタイによる福音書8章18-22節
今朝のテキストは、「弟子とは何か」または、「主イエスに従う」ということが主題です。主イエスが行かれるところ、その主イエスについて行くということを私たちは忘れてはなりません、イエスの背中を見ながら、生きていくことが出来るのかどうか、現実にそうしているかどうかということが、私どもにとって大事な問いです。19節「ある律法学者が近づいて、「先生、あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言った」とあります。22節に「イエスは言われた。「わたしに従いなさい」と言われました。」イエスが断固として従いなさいと求めておられます。わたしたちはこれまでいろ
2018年03月05日 19:06
聖書 マタイによる福音書8章14-17節
主イエスの生涯で最も華やかな時代は、ガリラヤの時代と言われています。主イエスの生涯はごく短いもので、正確な年数はわかりませんが、長くて3年と言われています。今日の聖書の個所は主イエスのある日の生活を、第5章1節から書き始めて、その1日の終わりまでを記しています。マタイは17節で、主イエスの賛美のことばを、「預言者イザヤの言葉」と記されているように、イザヤ書53章4節を引用しています。「彼はわたしたちの患いを負い、私たちの病を担った」。このイザヤ書のことばがここに実現しているのです。このイザヤ書はイエス以前、約800年前に書かれたものです。この個所は多
2018年02月26日 15:33
聖書 マタイによる福音書8章1-13節
イスラエルの民は「神に選ばれた民」ということですが、主イエスは、その信仰の民の中にあって信仰を探したけれども、今まで見つからなかったと言っています。ところが思いがけないところにその信仰を、イスラエルの民の外に見出されたのです。これが今朝の主題です。
ここに登場して来るのは、一人は重い皮膚病の人であり、もう一人は百人隊長です。2節「すると、一人の重い皮膚病を患っている人がイエスに近寄り、ひれ伏して、『主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります『と言った」と記されています。主イエスはその捨てられた人に近寄られるのです。5-6節「さて、イエス
2018年02月19日 19:22
聖書 サムエル記上18章1-11節
今朝は「ダビデとヨナタンの友情」について学んでいきたいと思います。ヨナタンはサウル王の長男です。父親と息子の関係が非常に緊密であったイスラエルの世界で、ヨナタンはあえて、親子関係よりも契約をダビデと結びました。ダビデとヨナタンは神との契約を重んじました。3節「ヨナタンはダビデを自分自身のように愛し、彼と契約を結んだ」そして、4節「着ていた上着を脱いで与え、また自分の装束を剣、弓、帯に至るまで与えた」とあるように、ヨナタンは自分にとって大切なものをダビデに与えました。しかし、ダビデは何もヨナタンに与える者はありませんでした。当時のダビデは与えたくても何ももっ
2018年02月13日 09:49
聖書 マタイによる福音書7章24-29節
24節「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている」ここで大切なことは、聞くことと、行うこととを分けることはできないということです。単に主イエスのお説教に過ぎないとして聞き過ごしてしまったということであるならば、それは、聞いてもいないし、信じてもいないということです。イエスの言葉を、岩だとは思っていないということです。
次に「賢い」という意味は、思いが深い、あるいは、見るべきものをしっかり見ている、正しく考えることが出来るという人の意味があります。信仰するということが、実は行いを含んでいます。神を信じる
2018年02月10日 06:39
聖書 マタイによる福音書7章15-23節
最初に「偽預言者に警戒しなさい」と記されています。偽預言者とは誰のことで、何を言っているのでしょうか?主イエスは偽預言者がどういう者であるかを明確にしていません。預言者とは神の言葉を伝える者です。旧約聖書の場合ですと「神はこのようにお語りになります」という人です。言い換えれば、自分の意見を述べるのではなくて、神の言葉を述べる者です。新約時代になると預言者という言葉は出てきませんが、伝道者という人でもあります。旧約の場合と違うのは、イエス・キリストの十字架と復活があり、その救いが完成されていることです。従って、今は、主なる神が仰せになることは、キリス