2018年05月06日 05:12
聖書 マタイによる福音書8章28-34節
ここに登場する悪霊に取りつかれた二人は墓場で生活をしていました。人々から離れ、生きながら死んだ人間の仲間に加えられているのです。ます。彼らは、墓場から出て来ては生きている者たちを妨げます。29節「突然、彼らは叫んだ。『神の子、かまわないでくれ。まだ、その時ではないのにここに来て、我々を苦しめるのか。』」滅びの霊が、主イエスにイエスを「神の子」と呼んでいることは、悪霊は主イエスの正体を知っていたのです。
もう一つ注目したいのは、「まだ、その時ではないのに」という言葉です。「その時」とは「この世の終わりの時です。悪霊は「その時」は自分たちが滅ぼされる時
2018年04月25日 23:03
聖書 サムエル記下11章1-17節
旧約聖書の面白さとして、一つには人間の両面性を描いているところです。初代の王サウルの後を継いで、ユダ王国の基盤を築いたのはダビデであり、信仰の人として高い賜物を持っていました。一方、聖書はダビデの罪を描いています。ダビデも神に対して肯定的な人格と、罪を犯す人間性をもっているのです。ダビデの過ちについて、それはバトシェバに関わることです。ダビデは、忠実な部下のウリヤの妻バトシェバを側女にしました。ウリヤはダビデの行いに対して気がついていたと思います。ウリヤの心を察すると、命がけで戦地に行っている間に、自分の妻が側女にされたのですから、ダビデへの強い批判があり
2018年04月19日 07:17
聖書 マタイによる福音書9章1-8節
この聖書の箇所は多くの信仰者に愛されている物語です。中風の者が、主イエスのところに人々によって運ばれてきました。その中風の者に「あなたの罪は赦される」と主イエスが言われました。8節に「群衆はこれを見て恐ろしくなり、人間にこれほどの権威をゆだねられた神を賛美した。」と記されています。
特に「人間にこれほどの権威をゆだねられた神」とは権威のある言葉を語り、わざをしておられるのは、主イエス・キリストのことです。キリストの特性にはメシアである面と、人間としての面があります。キリストは弟子たちに「お前たちは、わたしを誰と言うか」と質問されました。ペトロは「あなたは
2018年04月13日 06:22
聖書 マタイによる福音書8章23-27節
23節「イエスが舟に乗りこまれると、弟子たちも従った」とあります。わたしたちの人生は航海のようなものです。それはその出発の時から、既に人生の旅の道連れとなる親があり、仲間も一緒ですが、それだけでなく、私たちクリスチャンは一人ひとりの人生の旅に、復活のイエスもまた共にいてくださるのです。しかし、私たちの人生は常に春ののどかな日の連続ではあり得ません。24節「そのとき、湖に激しい嵐が起こり、舟は波にのまれそうになった」。人生の嵐は突如として襲いかかって来ます。病気のことも、苦しみも、愛する人との別れ、このようなものはわたしたちが求めて与えられたものではな
2018年04月06日 06:55
聖書 フィリピの信徒への手紙4章4-7節
水元教会では、2018年度の教会標語となる聖句を皆さんから応募していただきました。そして、2月4日の全体協議会で投票した結果、このフィリピの信徒への手紙4章6節の聖書の言葉が選ばれました。
4章2-3節に、フィリピの教会にあるエボディアとシンティケという二人の婦人が熱心に教会生活をしておられたわけですが、この二人に主にあって同じ思いを抱いてほしいと願っています。二人の婦人の間に一致がないということを、パウロは非常に心配をしているのです。それは二人の間に他者へに深い愛情が欠けているということを指摘していると思いますが、教会の中で共にくびきを負うという
2018年03月27日 06:05
聖書 マタイによる福音書28章1-10節
主イエス・キリストが十字架につけられて死なれた後、それを取り囲む人たちにとっては、様々な反応があったことが福音書に記されています。弟子たちはガリラヤに帰り、ローマの兵隊はそこを立ち去りました。キリストを十字架にかけて殺した彼らには勝利感は何もありませんでした。キリストがエルサレム入城したときに、大きな声でホサナと言って喜んで迎えた群衆は、キリストの喪失でした。キリストの死は、確かに闇の中に引きずり込んでいきました。「わたしは三日目によみがえる」と言われたキリストの言葉が、新しい恐れとなって彼らの心を揺さぶりました。1節「さて、安息日が終わって、週の初
2018年03月21日 21:05
聖書 マタイによる福音書27章32-44節
ここにはキリストの十字架の道のことが書かれています。兵士たちは出て行くと、シモンというキレネ人に出会った。キレネ人とはアフリカの北海岸にあるところですが、そこからやって来たシモンという男です。おそらくこの男はエルサレムに巡礼にやって来たのではないかと思われます。過越しの日に、多くの人々の中からキリストが、十字架を負っている姿を見て、彼は驚いて、そのキリストの十字架の後について行ったのでしょう。ローマ兵はこの田舎者でたくましい男に十字架を背負わせました。彼は、やがてカルバリの丘で、キリストが十字架につけられて、そこで語られたことばを聞いたかもしれない
2018年03月12日 13:53
聖書 マタイによる福音書8章18-22節
今朝のテキストは、「弟子とは何か」または、「主イエスに従う」ということが主題です。主イエスが行かれるところ、その主イエスについて行くということを私たちは忘れてはなりません、イエスの背中を見ながら、生きていくことが出来るのかどうか、現実にそうしているかどうかということが、私どもにとって大事な問いです。19節「ある律法学者が近づいて、「先生、あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言った」とあります。22節に「イエスは言われた。「わたしに従いなさい」と言われました。」イエスが断固として従いなさいと求めておられます。わたしたちはこれまでいろ
2018年03月05日 19:06
聖書 マタイによる福音書8章14-17節
主イエスの生涯で最も華やかな時代は、ガリラヤの時代と言われています。主イエスの生涯はごく短いもので、正確な年数はわかりませんが、長くて3年と言われています。今日の聖書の個所は主イエスのある日の生活を、第5章1節から書き始めて、その1日の終わりまでを記しています。マタイは17節で、主イエスの賛美のことばを、「預言者イザヤの言葉」と記されているように、イザヤ書53章4節を引用しています。「彼はわたしたちの患いを負い、私たちの病を担った」。このイザヤ書のことばがここに実現しているのです。このイザヤ書はイエス以前、約800年前に書かれたものです。この個所は多
2018年02月26日 15:33
聖書 マタイによる福音書8章1-13節
イスラエルの民は「神に選ばれた民」ということですが、主イエスは、その信仰の民の中にあって信仰を探したけれども、今まで見つからなかったと言っています。ところが思いがけないところにその信仰を、イスラエルの民の外に見出されたのです。これが今朝の主題です。
ここに登場して来るのは、一人は重い皮膚病の人であり、もう一人は百人隊長です。2節「すると、一人の重い皮膚病を患っている人がイエスに近寄り、ひれ伏して、『主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります『と言った」と記されています。主イエスはその捨てられた人に近寄られるのです。5-6節「さて、イエス