宣教

2017年11月23日 07:20

2017.11.26 「強く、雄々しくあれ」

聖書 ヨシュア記1章1-9節  ヨシュアは、イスラエルの指導者モーセの死後、イスラエルを神の約束された地へ導くために立てられた人です。彼は、常に神に励まされ、導かれ、彼の行く道を妨げる敵を打ち破り進んで行きました。ヨシュアがどういう人であったか、と言いますと、彼は何ごとでも決断する前に必ず神に聞くことを心がけていました。  モーセの死後、その地点で過去の栄光や苦難をしのび、思い出にふけってはならないのです。モーセを通して働かれた神は、彼らに先立ち、約束の実現へと彼らを導かれるのです。5節「わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない」と約束されてい
2017年11月16日 17:19

2017.11.19 宣教「神と富」

聖書 マタイによる福音書6章24節  今朝は、富を蓄えることと、神を信じることとは、どういう関係があるかということをご一緒に学んでいきたいと思います。  信仰生活をする人には、どうかすると富を持つことが悪いように思う人がありますが、福音による生活は、富とは何かを知って、それに惑わされないことであると思います。人間は、自立を願いながら、何かまたはだれか自分の信頼できる人、または主人を求めているのではないでしょうか。聖書には、人は二人の主人に仕えることができないと記しています。自分にとって本当の主人とはを考えなければなりません。右に左に、都合よいことばかり求めて、いつもふらふらしている、そういう人
2017年11月08日 15:49

2017.11.12 宣教「あなたの目は澄んでいますか。」

聖書 マタイによる福音書6章22-23節  「あなたの目は澄んでいるか?」というこのイエスの問いに、わたしたちはどのように答えるでしょうか。 22節に「目が澄んでいれば、あなたの全身が明るい」とは、私どもの存在の一部と言うのではなくて、全身が明るくなると言われています。 23節では「濁っていれば」とは、貪欲な目です。物に執着し、人に分けることのできない狭い目です。それが問われています。この世の物に心を寄せて、いつの間にかその奴隷になって、神に仕えることを忘れてしまう生き方です。目は心の輝きを表します。  ここで言われている「目」というのは、その人の性格や、品性が表れるものとされています。神に誠
2017年11月04日 15:05

2017.11.5 永眠者記念礼拝  宣教「魂のふるさと」

聖書 マタイによる福音書6章19-21節  今朝は、先に召された信仰の先達である諸兄姉を記念しつつ礼拝に集いました。特に今日はそのご家族も出席されています。お一人お一人の、その生前の日々は尊い月日でした。残念であったと思いますが、神の深い御心によることでしょう。今しばらく聖書から御言葉を学びたいと思います。  今日のテキストは自分の所有する富と神との関係です。自分の持ち物をどう扱うか、どう考えるかということは、信仰生活にとって大切なことです。多くの人が自分の持っているものに心を捕えられて、それを頼りにする。多く持っていることに安心することで、神を頼りにしないで、自分の持っている富を頼りとするこ
2017年10月30日 23:01

2017.10.29 宣教「永遠の故郷への入り口」

聖書 申命記34章1-12節 本日は、取手伝道所より小林祥人牧師をお招きいたしました。 ぜひ、礼拝案内をクリックして下方より実況ライブのアドレスをクリックして ご覧ください。 讃美歌Ⅱ174番は、あまり賛美したことがなくて・・・ 前週の礼拝後みんなで練習したのですよ。 いかがでしょうか♪  
2017年10月18日 13:57

2017.10.22 宣教「隠れたことを見る神」

聖書 マタイによる福音書6章16-18節  今朝は断食の話です。主イエスは必ずしも断食を勧めておられません。ファリサイ派の人々は週に2度、断食をして苦しみを自分に強いて、神の裁きに備えるように戒めました。しかし、主イエスは、その断食の行為を通して、神の働きが見えてこないことを嘆かれるのです。  主イエスの生涯の初めに、荒野の誘惑がありました。40日40夜、主イエスは食を断たれました。悪魔がやってきて、石をパンにせよという誘惑をしました。悪魔の最初の誘惑です。主イエスは飢える人間の悲しみを深く味わわれました。私どもが神に出会うために、わざわざ断食は必要なことでしょうか。私たちは飲み食いして、満腹
2017年10月15日 17:03

2017.10.15 宣教「心に平和を」

聖書  ルカによる福音書23章32-34節 <中心聖句> ルカ23:34 「父よ、彼らをお赦しください。」   本日は、神学校日ですので、日本聖書神学校2年の井田一郎さんに来ていただいて 礼拝説教をしていただきました。 仏教徒の家に生まれながらも、高校卒業後に神戸にてキリスト教会に導かれ、洗礼を 受けられたこと、会社を定年まで勤めた後しばらくは北海道で悠々自適の生活もされ、 昨年4月に日本聖書神学校に入学されました。 大変、わかりやすく、また深くお話をしてくださいました。しっかりとした姿勢からとても 80歳という年齢には思えない青年のような方です。 これからの学びの上に、伝道者としての歩みの上
2017年10月04日 18:22

2017.10.8 宣教「信仰に生きる」

聖書 ローマの信徒への手紙5章1-11節  このローマ書5章は主イエスの父なる神が、どのような救いを私どもに用意をしてくださっているか、救いをすでに実現してくださったかを学ぶのに、特に大切な部分です。人間が義とされるのは、私どもに信仰のみが求められ、それは信仰のみなのか、恵みに加えて少しは人間の側からの働きが必要なのか、ということです。私どももそれなりに一生懸命頑張った方が、満足しやすいのですが、信仰の危機はそこから始まります。神の恵みによってのみ、私たちは救われるのだという、そこにしっかりと私たちが経つことができるかどうか、救いは神の恵みによるものです。その信仰に生きて生きたいと思います。
2017年09月30日 08:31

2017.10.1 宣教「キリストと共に生きる」

聖書 マタイによる福音書6章13-15節  私たちは主の祈りで「悪より救い出し給え」と祈りますが、この悪とは誘惑です。教会もまた誘惑に囲まれています。ルターはこの試みを悪魔からの攻撃と理解しました。悪魔からの攻撃とは、私どもが信仰をもって生きようとするときに、私どもは戦いの中に立たされるということです。信仰に生き始めることは、この世の誘惑との戦いが始まることでもあります。ただ主の祈りを唱えたら、障害が消えてしまうことではありません。逆に真剣に祈ったら、そこに障害が起こります。時には、教会に来るよりも、自分の体を休めたいと思う誘惑と闘いながら、それを振り切って教会に集まります。教会はそのように私
2017年09月20日 17:48

2017.9.24 宣教「栄光への道」

聖書 出エジプト記3章1-15節  今日の聖書の個所は、モーセの召命です。また、そこには神への賛美の形式がとられています。  3章1-3節「道をそれて、この不思議な光景を見届けよう。どうしてあの柴は燃え尽きないのだろう」。モーセが柴が燃え尽きないことに不思議に思って、彼は柴に近づきました。それは「道をそれて」と聖書に書いています。モーセは羊の番をする仕事をしていました。しかし、そこから道をそれて、光の方に燃え尽きない柴の方に彼は歩き出そうとしています。  信仰の道というのは、一般社会からすると道をそれた行動のように見えます。神から召された者は、この世の中の同じレールの上を歩くということではなく

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