2017年09月14日 07:57
聖書 マルコによる福音書10章35-45節
本日は、藤垣昭雄牧師の夏季休暇のため斉藤宏牧師による宣教でした。
斉藤牧師は88歳です。開設から、ずっと水元教会を支えてくださっています。
斎藤先生、いつも、ありがとうございます!
2017年09月12日 17:58
聖書 マタイによる福音書6章12節
この「私たちの負い目を許してください。」という表現は、私どもが祈る主の祈りでは「我らに罪をおかした者を、我らが許すごとく、我らの罪を許したまえ」となっています。負い目とは「罪」のことです。
日本人には、人間は善人であるという考え方の人が多くあります。教会でも、悪い人はいないのだから、みんなと仲良くしていきましょう、というところがあります。しかし、聖書が繰り返し描いているのは罪びとの生活です。人間はすべてが罪びとだと言っているのです。聖書がいう罪の問題とは、人と人との問題ではなく、神の前に自分はどうなのかということです。
キリストは、マタイによる福音書1
2017年08月31日 17:16
聖書 マタイによる福音書6章11節
今日のテキストは「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」という祈りについて考えていきたいと思います。
主イエスは荒野の誘惑(4章1-4節)において、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と言われました。主イエスは飢える人間の苦しみや悲しみを味わわれました。人間を救うということは、どういうことか、この根本的な問題を聞き取っておられたのです。飢えという人間にとって、もっとも切実な現実を、共に苦しみつつ経験されました。「神の口から出るすべての言葉」という、それは、パンを求めていますが、同時に神の言葉を求める祈りでもあると
2017年08月24日 09:23
聖書 コリントの信徒への手紙二4章16-18節
16節には「外なる人」と「内なる人」が対照的に書かれています。この「外なる人」つまり肉体と古い人間性は衰えていくが、「内なる人」は新しく生まれ変わっていきます。つまり内にキリストを宿す人は、日ごとに新しくされ、霊的に成長していくというのです。
17節「わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます」とあるように、「一時の軽い艱難」と「重みのある永遠の栄光」とが対照的に記されています。パウロの経験した艱難は軽いものではありませんでした。それでも軽い艱難と言ったのは、パウロはやがてあずかる、比べものに
2017年08月15日 17:59
聖書 マタイによる福音書6章9-10節
今朝のテキストは「御国が来ますように」という祈りです。主イエスは繰り返し神の国について語られました。マルコ福音書1章15節で「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」は、主イエスが宣べ伝えらえた福音の中心をなすものです。初代教会の人たちは、ユダヤ人から迫害され、ローマ帝国からも殉教させられ、最後まで「御国が来る」ことを真剣に祈りました。
私たちの現実の生活の中では、実際には「御国」はあまり問題になっていないのではないでしょうか。初代教会の時代は主イエスが間もなく再びおいでになると信じていました。それで、この祈りの言葉を、いつも繰り返し
2017年08月13日 14:44
聖書 マタイによる福音書6章9-10節
主の祈りは6つの祈りと一つの頌栄から出来ています。初めの三つは、神のための祈りです。御名「あなたの名前」、御国「あなたの国」、御心「あなたの心」という神への祈りtなっています。あとの3つは「私たちに必要な糧」、「私たちの負い目」、「私たちの誘惑から」という「私たち」のことになっています。
まずわたしたちは、神への信仰をはっきりすることが、祈りにおいて大切なことです。神に祈るときに、私たちが自分のために祈ることになっては、神を利用したことになります。主の祈りは、このように弟子たちの願いに応えて、主イエスが教えてくださった祈りです。「天におられるわたした
2017年08月02日 17:26
聖書 マタイによる福音書6章5-8節
今朝のテキストの重要なところは、6節「だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」と、祈りも隠してするようにと言っています。祈りをするのは「あなた」一人のことです。
信仰生活について大切なことは、神の目にのみ明らかな生活をしなさい、ということです。信仰生活には多くの誘惑があります。その誘惑は外からの誘惑もありますが、むしろ自分の中から起こる誘惑があります。それは自分を高く評価されたい、自分をよく見せようとする誘惑です。それ
2017年07月25日 18:31
聖書 出エジプト記1章15-21節
今朝は、モーセの出生の問題について学びたいと思います。
1章5節に「孫の数は全部で70人であった。ヨセフは既にエジプトにいた」とあります。出エジプト記は、ヤコブとイスラエルの12部族からの話がはじまります。そして、急にモーセの時代に入っていきます。なぜこの間の430年間がブランクになったのかは、いまだに分かりません。その430年後、エジプトにおけるイスラエルの人々は強大な民族として増え広がっていったことが聖書に記されています。
そこで、エジプトのファラオの圧力が強くなっていきました。12-14節「しかし、虐待されればされるほど、彼らは増え広がった・・
2017年07月21日 06:48
聖書 マタイによる福音書6章1-4節
1節で「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい」と、一貫した主張をもっている言葉で、具体的な生活の姿が記されています。自分の善い行いや、自分の正しいことを、人の前で見せるな、ということです。そういうことは自分と神とだけのことにしておくようにということです。
また、2節に「偽善者」という言葉がありますが、人が見ているところだけで善行をすることは偽善者です。それは、人のために善い行いをすると言いながら、実際は自分のためにしているにすぎないからです。3節の「右の手のすることを左の手に知らせてはならない」ということは、「他人に見られるな」と
2017年07月15日 18:40
聖書 マタイによる福音書5章43-48節
イエスは敵を愛するたけでなく、自分を迫害する敵のために祈れと言われました。愛することも決してやさしいことでありませんが、敵のために祈るということは、簡単なことではありません。私たちは「敵を愛する」ことは、実際には、そのようには生きられないと結論づけてしまいます。そうすると、「愛の生活」には何の変化も起こさず、私たちは、この聖句を読み過ごしてしまいます。
なぜ「敵を愛する」ことをしなければならないのでしょうか?45節には「天にいますあなたがたの父の子となるためである」と書いています。敵を愛するということは、「天にいます父なる神の子となるためである」と