2017年10月04日 18:22
聖書 ローマの信徒への手紙5章1-11節
このローマ書5章は主イエスの父なる神が、どのような救いを私どもに用意をしてくださっているか、救いをすでに実現してくださったかを学ぶのに、特に大切な部分です。人間が義とされるのは、私どもに信仰のみが求められ、それは信仰のみなのか、恵みに加えて少しは人間の側からの働きが必要なのか、ということです。私どももそれなりに一生懸命頑張った方が、満足しやすいのですが、信仰の危機はそこから始まります。神の恵みによってのみ、私たちは救われるのだという、そこにしっかりと私たちが経つことができるかどうか、救いは神の恵みによるものです。その信仰に生きて生きたいと思います。
2017年09月30日 08:31
聖書 マタイによる福音書6章13-15節
私たちは主の祈りで「悪より救い出し給え」と祈りますが、この悪とは誘惑です。教会もまた誘惑に囲まれています。ルターはこの試みを悪魔からの攻撃と理解しました。悪魔からの攻撃とは、私どもが信仰をもって生きようとするときに、私どもは戦いの中に立たされるということです。信仰に生き始めることは、この世の誘惑との戦いが始まることでもあります。ただ主の祈りを唱えたら、障害が消えてしまうことではありません。逆に真剣に祈ったら、そこに障害が起こります。時には、教会に来るよりも、自分の体を休めたいと思う誘惑と闘いながら、それを振り切って教会に集まります。教会はそのように私
2017年09月20日 17:48
聖書 出エジプト記3章1-15節
今日の聖書の個所は、モーセの召命です。また、そこには神への賛美の形式がとられています。
3章1-3節「道をそれて、この不思議な光景を見届けよう。どうしてあの柴は燃え尽きないのだろう」。モーセが柴が燃え尽きないことに不思議に思って、彼は柴に近づきました。それは「道をそれて」と聖書に書いています。モーセは羊の番をする仕事をしていました。しかし、そこから道をそれて、光の方に燃え尽きない柴の方に彼は歩き出そうとしています。
信仰の道というのは、一般社会からすると道をそれた行動のように見えます。神から召された者は、この世の中の同じレールの上を歩くということではなく
2017年09月14日 07:57
聖書 マルコによる福音書10章35-45節
本日は、藤垣昭雄牧師の夏季休暇のため斉藤宏牧師による宣教でした。
斉藤牧師は88歳です。開設から、ずっと水元教会を支えてくださっています。
斎藤先生、いつも、ありがとうございます!
2017年09月12日 17:58
聖書 マタイによる福音書6章12節
この「私たちの負い目を許してください。」という表現は、私どもが祈る主の祈りでは「我らに罪をおかした者を、我らが許すごとく、我らの罪を許したまえ」となっています。負い目とは「罪」のことです。
日本人には、人間は善人であるという考え方の人が多くあります。教会でも、悪い人はいないのだから、みんなと仲良くしていきましょう、というところがあります。しかし、聖書が繰り返し描いているのは罪びとの生活です。人間はすべてが罪びとだと言っているのです。聖書がいう罪の問題とは、人と人との問題ではなく、神の前に自分はどうなのかということです。
キリストは、マタイによる福音書1
2017年08月31日 17:16
聖書 マタイによる福音書6章11節
今日のテキストは「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」という祈りについて考えていきたいと思います。
主イエスは荒野の誘惑(4章1-4節)において、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と言われました。主イエスは飢える人間の苦しみや悲しみを味わわれました。人間を救うということは、どういうことか、この根本的な問題を聞き取っておられたのです。飢えという人間にとって、もっとも切実な現実を、共に苦しみつつ経験されました。「神の口から出るすべての言葉」という、それは、パンを求めていますが、同時に神の言葉を求める祈りでもあると
2017年08月24日 09:23
聖書 コリントの信徒への手紙二4章16-18節
16節には「外なる人」と「内なる人」が対照的に書かれています。この「外なる人」つまり肉体と古い人間性は衰えていくが、「内なる人」は新しく生まれ変わっていきます。つまり内にキリストを宿す人は、日ごとに新しくされ、霊的に成長していくというのです。
17節「わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます」とあるように、「一時の軽い艱難」と「重みのある永遠の栄光」とが対照的に記されています。パウロの経験した艱難は軽いものではありませんでした。それでも軽い艱難と言ったのは、パウロはやがてあずかる、比べものに
2017年08月15日 17:59
聖書 マタイによる福音書6章9-10節
今朝のテキストは「御国が来ますように」という祈りです。主イエスは繰り返し神の国について語られました。マルコ福音書1章15節で「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」は、主イエスが宣べ伝えらえた福音の中心をなすものです。初代教会の人たちは、ユダヤ人から迫害され、ローマ帝国からも殉教させられ、最後まで「御国が来る」ことを真剣に祈りました。
私たちの現実の生活の中では、実際には「御国」はあまり問題になっていないのではないでしょうか。初代教会の時代は主イエスが間もなく再びおいでになると信じていました。それで、この祈りの言葉を、いつも繰り返し
2017年08月13日 14:44
聖書 マタイによる福音書6章9-10節
主の祈りは6つの祈りと一つの頌栄から出来ています。初めの三つは、神のための祈りです。御名「あなたの名前」、御国「あなたの国」、御心「あなたの心」という神への祈りtなっています。あとの3つは「私たちに必要な糧」、「私たちの負い目」、「私たちの誘惑から」という「私たち」のことになっています。
まずわたしたちは、神への信仰をはっきりすることが、祈りにおいて大切なことです。神に祈るときに、私たちが自分のために祈ることになっては、神を利用したことになります。主の祈りは、このように弟子たちの願いに応えて、主イエスが教えてくださった祈りです。「天におられるわたした
2017年08月02日 17:26
聖書 マタイによる福音書6章5-8節
今朝のテキストの重要なところは、6節「だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」と、祈りも隠してするようにと言っています。祈りをするのは「あなた」一人のことです。
信仰生活について大切なことは、神の目にのみ明らかな生活をしなさい、ということです。信仰生活には多くの誘惑があります。その誘惑は外からの誘惑もありますが、むしろ自分の中から起こる誘惑があります。それは自分を高く評価されたい、自分をよく見せようとする誘惑です。それ