2017年07月14日 10:28
特別伝道礼拝
聖書 マタイによる福音書6章25-34節
今朝は、安増幸子牧師による特別伝道礼拝です。
安増牧師は長い間の教員生活の経験後、神学校で学ばれ牧師となられました。
冨貴島教会(現...
2017年07月11日 08:02
マタイによる福音書5章43-48節
主イエスは敵を愛するだけでなく、自分を迫害する敵のために祈れと言われました。敵を愛することはやさしいことではありませんが、祈るということも簡単なことではありません。「敵を愛せよ」という教えは実際にそうは生きられないと結論づけてしまいます。そうすると無理に、主イエスの教えを守る必要もないということであるならば、私たちの「愛の生活」には何の変革も起こしません。主イエスはなぜ「敵を愛し、自分の迫害する者のために祈りなさい」と言われるのでしょうか?愛することのできる人を愛していくならば誰でもできます。それは結局愛し得る者だけを愛していくところでは、愛や平和はありませ
2017年06月29日 04:53
聖書 マタイによる福音書5章38-42節
「目には目を、歯には歯を」この言葉は誰でも知っています。目に傷を受けたら、相手の目を傷つけ、歯を折られたら、歯を折れという、復讐を徹底的にするということを記しています。この言葉を一般的に受け取っていた者たちに対して、主イエスは「悪人に手向かってはならない」ということを言われ、さらに「だれかがあなたの右の頬を打つなら左の頬をも向けなさい」と言われたのです。これまでの考えではとても考えられないことです。
しかし実際の生活の中で、そんなことが出来るのかということです。これは、理想論なのでしょうか、それとも、無抵抗が本当に力となるのでしょうか?
悪に対し
2017年06月22日 17:27
聖書 創世記37章1-36節
3節に「イスラエルは、ヨセフが年寄り子であったので、どの息子よりもかわいがり、彼には裾の長い晴れ着を作ってやった」。また、4節では「兄たちは、父がどの兄弟よりもヨセフをかわいがるのを見て、ヨセフを憎み、穏やかに話すこともできなかった」と記されています。 「穏やかに話すこと」とは、ヘブル語ではシャロームという言葉が使われています。つまりシャロームという「お互いに平和があるように」というユダヤ人の挨拶が出来ななかったということです。挨拶の言葉ができないということは、そこには平和が崩壊しているということです。ヨセフは自分が見た夢を自慢して兄たちに話しました。それは父も
2017年06月17日 07:53
聖書 マタイによる福音書5章33-37節
私たちは毎週使徒信条告白をいたします。私たちはこの誓約に基づいて教会を形成しています。その信仰告白がどこまで誠実であるかと問われますと、いささか軽く考えるところがあります。信仰の問題はそれは神の前で口にした言葉を守っていますかということを問われています。
わたしたちの語り合う言葉が建前であったり、不真実な信用できないものであったら、私たちは人間関係においても社会においても成り立ちません。
私たちは自分が弱い人間で、不真実な人間だと思うことがあっても、主イエスは、私たちに対して望みを失われません。48節に語られれているように「あなたがたの天の父が完
2017年06月08日 07:25
聖書 マタイによる福音書6章25-34節
6月第2日曜日は、「子どもの日・花の日」です。水元教会では、子どもたちが健やかに成長すると共に、神様に従い人に仕えて生きる者となるようにと一緒に礼拝を守っています。ります。
聖書には「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」と書かれています。「思い悩む」ということは、今日のことを思い悩むこともありますが、やはり明日がどうなるか、ということが誰にとっても大事なことです。もし、明日のことがいつでも確かなら、だれも悩むことはしません。ここで「苦労」という言葉は、悪いこと、つらいことという
2017年06月01日 16:54
聖書 使徒言行録2章1-13節
キリスト教が世界の宗教となっていったキーとなるのは、一番目にはペンテコステ(聖霊降臨)です。二番目はペトロ、三番目はパウロの働きです。
キリストの復活の後、50日目(ペンテコステの意味)に、120人ほどの人々が集まって祈っていたところに、その一人一人に聖霊が降りました。
この出来事は、自分たちユダヤ人は神から選ばれた選民であって、他の異邦人とは違うのだと考えていた人々が、神の聖霊を受けることによって、ユダヤ人も異邦人もないのだということに気づいたのです。聖霊降臨のペンテコステの経験は、今までユダヤ人であるとか、ギリシア人とか、他の国の者であると考えていたけ
2017年05月23日 08:07
聖書 創世記13章1-18節
創世記に出てくる信仰の父と言われるアブラハムの生涯を通して考えていきたいと思います。
12章2節で神はアブラハムに「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の基いとなるように。」ち言われました。
なぜアブラハムが神に選ばれたのかわかりませんが、それは神の御計画の中にある「神の選び」としか言いようがありません。アブラハムの父テラはアブラハムと孫のロトと、アブラハムの妻サライとを連れて、カナンの地へ行くために、カルデアのウルを出ました。アブラハムの妻サライは不妊の女で、子どもが出来なかった。彼らの未来は開かれていない、もう血筋も閉
2017年05月19日 06:43
聖書 マタイによる福音書5章27-32節
今朝の聖書の箇所は「姦淫するな」、「離婚してはならない」という戒めが記されています。
主イエスはまことに厳しい戒めを語られました。28節「みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでみ、既に心の中でその女を犯したのである」というのです。この御言葉は理解できても、だれも実行できないと思うのではないでしょうか。
姦淫の問題は結婚をどう考えるかということです。31節には離婚について語られています。「妻を離縁する者は、離縁状を渡せと命じられている」、当時のお掟では自分の妻を出したくなったら、離縁状を渡せばよかったのです。「妻を出す」というのは、不要な品物を手放
2017年05月13日 07:02
聖書 マタイによる福音書5章21-26節
<中心聖句> 5:22
「わたしは言っておく。
兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。」
主イエスは律法について御自分の考えを述べられた。一番初めに出てきたのは、21節「殺すな。人を殺した者は裁きを受ける」というものでした。しかし、22節では実際に殺さなくても「兄弟に腹を立てる者は誰でも裁きを受ける」と言われたのです。これは、律法を文字だけで解釈しないで、その心を考えなさいということを主イエスは言われているのです。そして、22節ではさらに「兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に「ばか」という者は最高法院に引き渡さ