2017年05月04日 09:49
聖書 マタイによる福音書5章14-16節
今日の世界は、政治家が過激な発言を繰り返し、非常に国益を主張するという何か危ない状況にあるように思います。それは、自由であって自由を縛り、闇の中へ入り込むような時代と言えるのではないかと思うのです。人間が光を見失い、生きる意味を見失っています。そういう時代に、どう生きて行けばよいのでしょうか。キリスト者としてどのように生きて行かねばならないでしょうか。
今日の聖句で「あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない」とあります。キリストを信じる者の生活も、世の光とされた者、世を照らす光とされた者として、誰にでも見られるということで
2017年04月27日 16:22
聖書 創世記4章1-15節
エバの産んだ子どもに「カイン」と「アベル」がいました。
カインは「土を耕す者」となり、アベルは「羊を飼う者」となりました。彼らはそれぞれ「主のもとに捧げ物を持って」来ました。
しかし、4~5節「主はアベルとその捧げ物に目を留められたが、カインとその捧げ物には目を留められなかった」。それはなぜか、聖書には何も記されてはいません。
5節「カインは激しく怒って顔を伏せた」6節「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔をあげられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならな
2017年04月22日 07:26
聖書 マタイによる福音書5章13節
<中心聖句>
5:13
「あなたがたは地の塩である。」
ここで、「あなたがた」とは、イエスの弟子たちのことです。そういうことから言いますと、私ども信仰者ということも言えます。キリスト者は「地の塩」であるということです。また同時に信仰者の集まる教会のことを言っています。主イエスを信じるがゆえに、主の栄光を現すために選ばれた者たちが、地の塩の務めをすることになったのです。私たち信仰者が、地の塩の務めをすることが出来るのは、この主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりを受けているから、地の塩になれるというのです。
塩の意味として、まず純潔さを表しています。
2017年04月12日 11:44
聖書 ルカによる福音書24章1-12節
イエスの復活の記事は、4つの福音書に書かれていますが、その内容はそれぞれに違いがあります。その中で共通していることは、主イエスが復活になった事実に出会った最初の人は、女性であったということです。
女性たちがキリストの体に香油を塗るためにお墓に来たのは、夜明け前のことです。お墓の入り口で彼女たちが見たものは、入り口の石が転がされて、お墓の中が見えたというのです。そして、中を見ると、そこにはキリストの体はありませんでした。
4節「そのために途方に暮れている」と記されているように、女性たちは何が起こったのか理解できませんでした。そこに二人の天使が「なぜ、
2017年04月06日 06:10
聖書 ルカによる福音書23章13-25節
イエスの生涯で、その最後の一週間を受難週と呼んでいます。私たちの教会では、明日の10日(月)から15日(土)まで夕方6時から祈祷会を持ちます。その一週間の一日一日キリストの苦難を思い返していきます。
特に木曜日に行われたイエスの審判から、十字架の決定に至るまでの経過は、4つの福音書では非常に詳しく記しています。イエスの生涯を通していかに重要なものであるかを示しているからです。
主イエスの裁判において、なぜイエスは十字架にかからなければならないのか。これらのことは私どもの救いのためだと教わっているところです。
このイエスの十字架の死は、私たちは
2017年03月31日 06:33
聖書 エフェソの信徒への手紙4章25-32節
<中心聖句>
4:32
「神がキリストによって
あなたがたを赦してくださったように赦し合いなさい。」
今日から教会は2017年度の新しい年度が始まります。
その年度を迎えるにあたり、先般、水元教会で教会標語と聖句を礼拝に出席された方々で投票によって決定しました。
「互いに赦し合いましょう」という標語で、聖書の箇所はエフェソの信徒への手紙4章32節「神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように赦し合いなさい」という聖句からでした。
エフェソ書の4章25節からは私どもの信仰を持っている者の具体的な生き方が記されています。
2017年03月24日 21:18
聖書 マタイによる福音書5章10-12節
<中心聖句>
5章10節
「義のために迫害される人々は、幸いである。
天の国はその人たちのものである。」
...
2017年03月16日 17:00
聖書 マタイによる福音書5章9節
聖書では平和という意味は、平安という意味があります。
主イエス・キリストは弟子たちに伝道に遣わされるとき、どの家にも平安を祈ってあげなさい。「その家に入ったら『平和があるように』とあいさつしなさい」(マタイ10:13)と教え、平安を祈る挨拶をもってその家に入るように命じられたことが記されています。
まず神と人との平和が第一であって、神によって祝福され、恵み深く扱われるという意味があり、従って、聖書の「平和」はいつも神との関係から言えることです。平和は、神との平和をもとにしなければなりません。「平和を実現する人々は幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」
2017年03月11日 06:07
聖書 マタイによる福音書5章6-8節
「義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる」
真面目な人であれば、誰でも正しい人になりたいと思います。しかし、この世的な幸せを求めていると、いつまでもたどりつかない。私たちが本当にどれだけ心清く生きたいか、それを真剣に求めているかということです。この「義に飢え渇く」という言葉は、神の救いに飢え渇くことと言い換えてもよいと思います。神の救いに飢え渇く人のことです。神の言葉に飢え渇いている、ということです。詩編42編1-3節にある「涸れた谷に鹿が水を求めるように、神よ、わたしの魂はあなたを求める。神に、命の神に、わたしの魂は渇く」というので
2017年03月03日 06:42
聖書 マタイによる福音書5章4-5節
<中心聖句>
5:4
「悲しむ人々は、幸いである。
その人たちは慰められる。」
今日のテキストは4節に「悲しんでいる人たちは、幸いである」この言葉を聞くときに、不思議な言葉だと思います。牧師はしばしば悲しみに出会います。それはわたしの務めです。その時に、その人の悲しみに出会って、人の悩みを聞く、または人が亡くなったその悲しみの中にある人、そういう人に「おめでとう、悲しんでいる人は幸いです」とは言えません。ここに記されている「悲しんでいる人は、幸いである」という言葉は、これは私ども人間には語れない言葉です。こういう言葉を語れる方は、「たっ