2016年10月30日 14:49
聖書 エフェソの信徒への手紙6章10-16節
≪中心聖句>
6:15
「なおその上に、信仰を盾として取りなさい。
それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく
消すことができるのです。」
今日のテキストでは、パウロはエフェソの教会の信徒に、「悪と戦え」と、最後になって、信仰が戦いであると言っています。パウロは信仰生活を語るとき、終わりにはこれを言わなければならない、ということなのです。
信仰生活はキリストを主と仰ぐ生活です。しかし、それがそうではないという声は、私どもの外からも内からも迫ってきます。神に反するすべての力と戦ってこ
2016年10月23日 17:24
ルカによる福音書24章13-32節
<中心聖句>
24:32
「二人は、『道で話しておられるとき、
また聖書を説明してくださったとき、
わたしたちの心は燃えていたではないか』と語り合った。」
今朝のテキストには、あの有名なエマオの途上のキリストのことが記されています。十字架にかけられて死んだキリストは安息日1日は墓の中に休まれました。そして、翌日の朝キリストがよみがえったといううわさが町中に語られたのです。しかし、気落ちした二人は、沈んでいく夕日に向かって歩いていました。信頼し期待していたキリストの死に直面し、愛していた存在
2016年10月16日 15:28
聖書 ルカによる福音書17章11-19節
<中心聖句>
17:17
「清くされたのは十人ではなかったか。
ほかの九人はどこにいるのか。」
今朝のテキストは「重い皮膚病を患っている10人の人をいやす」という記事です。
10人が「イエスさま、どうかわたしたちを憐れんでください」と叫んだ。イエスは「祭司のところへ行って、体を見せなさい」と言われた。彼らが祭司のところへ向かったが途中で清くされた。すると10人のうちの1人が、大声で神を賛美しながら戻って来た。この人はサマリア人だった。「イエスは清くされたのは10人ではなかったか。ほかの9人はどこにいるのか。この外国人のほかに神を
2016年10月03日 09:15
聖書 ルカによる福音書15章11~32節
<中心聖句>
⒖:21
「お父さん、
わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。
もう息子と呼ばれる資格はありません。」
水元教会は1994年10月2日の聖日に、「水元・家の教会」がスタートいたしました。
当初は、斉藤牧師夫妻のみの礼拝もあったと聞いております。2004年に現在の以前パン屋さんであった場所を購入、2005年3月27日に、現在の教会堂で、多くの人に溢れ感謝と感動の中でイースター礼拝を持つことが出来ました。このような水元教会の原点を振り返り感謝を持って、これか
2016年09月27日 08:19
聖書 マタイによる福音書11章28-30
<中心聖句>
11:28
「疲れた者、重荷を負う者は、
だれでもわたしのもとに来なさい。
休ませてあげよう」
今日の聖書の言葉は、わたしたちが何度もくじけそうになった時に、立ち上がらせてくれたか分かりません。わたしも何度も失敗をしてきました。そんな時に、イエスの「わたしのもとに来なさい」というみ言葉に救われるのです。わたしたちはつまずかない人生を送ることが大切なこととは思いません。人間は失敗して、つまずくのは当たり前です。ただそのときくじけてしまわないことが大切です。人間はときにどん底を味わ
2016年09月19日 09:08
聖書 「マルコによる福音書12章38-44節」
<中心聖句>
「皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活を全部入れたからである。」
38節で「律法学者に気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回る」ことを批判されています。わたしたちはこのような経験をすることがありませんので、自分には関係のない話だと思ってしまいます。主イエスは、律法学者が犯している過ちを問題にしています。「人一倍厳しい裁きを受けることになる」と主イエスが言われるほどの過ちは、「見せかけの」というように、自分の偽りの姿を正当化することを言い表すことです。神様
2016年09月12日 08:15
聖書 マタイによる福音書23章1-12節
<中心聖句>
23:12
「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
今朝はマタイ23章1-12節までを考えてみます。22章42節に「あなたがたはメシアのことをどう思うか」と主イエスは問われました。その問いをめぐって問答に続いて、8節「あなたがたは先生と呼ばれてはならない」と言われました。わたしどもも律法学者、ファリサイ人と同じ罪を犯します。教える人間がどんなに過ちを犯しかということが問題となる。人は何かを教えたがる癖をもっている。教えたがる人間が、無意識のうちに上からの目線で、人を評価して、区別することを覚えてしま
2016年09月05日 10:03
聖書 ペトロの手紙第一 4章1-6節
<中心聖句>
4:2
「もはや人間の欲望にではなく神の御心に従って
肉における残りの生涯を生きるようになるためです。」
使徒ペトロは、キリストの第一の直弟子と言われています。キリストと共に生活をし、キリストの言葉を直接に聞き、そしてイエス・キリストの十字架を目の当たりに見、さらにキリストの空の墓を見た人でした。そのペトロが書いた手紙となっていますが、この手紙の5章12節には「わたしは、忠実な僕シルワノによって、あなたがたにこのように短く手紙を書き」とわざわざ記してありますことを見ますと、ペテロ自身が自筆で書いたというよりも、ペテロが書き
2016年08月29日 11:12
聖書 マタイによる福音書5章13-16節
<中心聖句>
5:16
「人々が、あなたがたの立派な行いを見て、
あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」
14節の「あなたがたは世の光である。」と後に、「山の上にある町は、隠れることができない。」とあるのは、どういう意味でしょうか。
「世の光」と「山の上の町」と何の関係があるのでしょうか。その後15節には「また、ともし火をともして升の下に置く者はいない」とあります。これは、光というのは隠すべきものではなくて、それによって、すべてのものを照らし出すべきものであると書いているように、「山の上の町は、どこからでも見える」とい