2016年10月03日 09:15
聖書 ルカによる福音書15章11~32節
<中心聖句>
⒖:21
「お父さん、
わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。
もう息子と呼ばれる資格はありません。」
水元教会は1994年10月2日の聖日に、「水元・家の教会」がスタートいたしました。
当初は、斉藤牧師夫妻のみの礼拝もあったと聞いております。2004年に現在の以前パン屋さんであった場所を購入、2005年3月27日に、現在の教会堂で、多くの人に溢れ感謝と感動の中でイースター礼拝を持つことが出来ました。このような水元教会の原点を振り返り感謝を持って、これか
2016年09月27日 08:19
聖書 マタイによる福音書11章28-30
<中心聖句>
11:28
「疲れた者、重荷を負う者は、
だれでもわたしのもとに来なさい。
休ませてあげよう」
今日の聖書の言葉は、わたしたちが何度もくじけそうになった時に、立ち上がらせてくれたか分かりません。わたしも何度も失敗をしてきました。そんな時に、イエスの「わたしのもとに来なさい」というみ言葉に救われるのです。わたしたちはつまずかない人生を送ることが大切なこととは思いません。人間は失敗して、つまずくのは当たり前です。ただそのときくじけてしまわないことが大切です。人間はときにどん底を味わ
2016年09月19日 09:08
聖書 「マルコによる福音書12章38-44節」
<中心聖句>
「皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活を全部入れたからである。」
38節で「律法学者に気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回る」ことを批判されています。わたしたちはこのような経験をすることがありませんので、自分には関係のない話だと思ってしまいます。主イエスは、律法学者が犯している過ちを問題にしています。「人一倍厳しい裁きを受けることになる」と主イエスが言われるほどの過ちは、「見せかけの」というように、自分の偽りの姿を正当化することを言い表すことです。神様
2016年09月12日 08:15
聖書 マタイによる福音書23章1-12節
<中心聖句>
23:12
「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
今朝はマタイ23章1-12節までを考えてみます。22章42節に「あなたがたはメシアのことをどう思うか」と主イエスは問われました。その問いをめぐって問答に続いて、8節「あなたがたは先生と呼ばれてはならない」と言われました。わたしどもも律法学者、ファリサイ人と同じ罪を犯します。教える人間がどんなに過ちを犯しかということが問題となる。人は何かを教えたがる癖をもっている。教えたがる人間が、無意識のうちに上からの目線で、人を評価して、区別することを覚えてしま
2016年09月05日 10:03
聖書 ペトロの手紙第一 4章1-6節
<中心聖句>
4:2
「もはや人間の欲望にではなく神の御心に従って
肉における残りの生涯を生きるようになるためです。」
使徒ペトロは、キリストの第一の直弟子と言われています。キリストと共に生活をし、キリストの言葉を直接に聞き、そしてイエス・キリストの十字架を目の当たりに見、さらにキリストの空の墓を見た人でした。そのペトロが書いた手紙となっていますが、この手紙の5章12節には「わたしは、忠実な僕シルワノによって、あなたがたにこのように短く手紙を書き」とわざわざ記してありますことを見ますと、ペテロ自身が自筆で書いたというよりも、ペテロが書き
2016年08月29日 11:12
聖書 マタイによる福音書5章13-16節
<中心聖句>
5:16
「人々が、あなたがたの立派な行いを見て、
あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」
14節の「あなたがたは世の光である。」と後に、「山の上にある町は、隠れることができない。」とあるのは、どういう意味でしょうか。
「世の光」と「山の上の町」と何の関係があるのでしょうか。その後15節には「また、ともし火をともして升の下に置く者はいない」とあります。これは、光というのは隠すべきものではなくて、それによって、すべてのものを照らし出すべきものであると書いているように、「山の上の町は、どこからでも見える」とい
2016年08月21日 13:41
聖書 マタイによる福音書25章31-46節
<中心聖句>
25:40
「はっきり言っておく。
わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、
わたしにしてくれたことなのである。」
今朝のテキストのたとえは、有名なトルストイのお話し『愛あるところに神あり』、あるいは『靴屋のマルティン』の終わりの部分に引用された聖句として有名です。
また、このマタイによる福音書23章から25章までは、主イエスの最後の教えとしての御言葉が記されている箇所であります。
従って、これは地上における主イエスの説教の最後であり、その結びであって、その
2016年08月14日 21:52
聖書 ローマの信徒への手紙7章13-25節
<中心聖句>
7:18
「わたしは、自分の内には、つまり私の肉には、善が住んでいないことを知っています。
善をなそうという意思はありますが、それを実行できないからです。」
...
2016年08月08日 06:23
聖書 ヨハネによる福音書20章24-29節
<中心聖句>
20:26
「イエスが来て真ん中に立ち、
『あなたがたに平和があるように」と言われた。」
安息日の翌日、主がよみがえられた日に弟子たちはユダヤ人を恐れて一つの家に集まっていました。そして、戸口に鍵をかけていました。そこにイエス様が姿を現してくださったことが19章に記されています。 しかし、そこにトマスはいなかった。なぜ、トマスだけがそこにいなかったのかは記されていませんが、トマスはイエス様を8日の間、待たなければならなかったのです。
24節「12人の一人でディディモと呼ばれるトマス」と書