2016年07月31日 22:21
聖書 ヨハネによる福音書4章1-26節
<中心聖句>
4:6
「そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。」
...
2016年07月25日 10:18
聖書 マタイによる福音書6章25-34節
<中心聖句>
6:33
「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。」
人間は思い悩む者です。しかし、この「思い悩む」のは、どこから来るのかと言いますと、それは、どうにもならないことをくよくよ考えることです。どうにもならないことを、自分でどうにかなるようにと自分で「思い悩む」ことです。そして、困ることに、多くの場合、悪い方に、悪い方へと考えてしまうのです。
そういう私たちに対して、主イエスは、ここで「思い悩むな」と繰り返し語っておられます。26節の「空の鳥を見なさい。種を蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だ
2016年07月17日 16:20
聖書 マルコによる福音書15章33-41節
<中心聖句>
15:34
「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」
主イエス・キリストが十字架につけられた時、その十字架の上で語られたとされる言葉は、四福音書の中に7つ伝えられています。その中で、もっとも多くの人が覚えておられるのはルカによる福音書23節34節のみ言葉と思います。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているか知らないのです。」という言葉です。この言葉は、多くの人々の心を捕え、主の十字架の意味を明らかにする役割を果たしました。
さて、今朝のテキストの マルコによる福音書では、34節「エロイ
2016年07月10日 16:43
聖書 ヨハネによる福音書12章1-11節<中心聖句>12:7「イエスは言われた。『この人のするままにさせておきなさい。 わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。』」 ここには、「過越しの祭りの6日前にイエスはベタニアに行かれた。」と書いています。それは、キリストが十字架にかかられる前であって、キリストを取り巻く人々の中に、特に祭司やパリサイ派の人たちは、いかにしてキリストを殺そうかと、その時をねらっている。そういう時であったのです。 ここに、ラザロという男の名前が2回も出てきますが、エルサレムから3キロばかり離れたこのベタニアという町にラザロが住んでいました。前の
2016年07月05日 05:44
聖書 マルコによる福音書6章45~52節
<中心聖句>
6:48
「逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て、
夜が明けたころ、湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、
そばを通り過ぎようとされた。」
私たちは、生活が順風満帆で快適に暮らしていると時は、いつも神様がいてくださるような気がするかもしれませんが、ちょっとでも人につまずいたりしますと、すっかり落ち込んでしまします。家族の中で何か起こると、神様なんかおられないのではないかと思いはじめてしまう。神が見えなくなるというのは、信仰を持たない人のことではありません。信仰をもって
2016年06月27日 08:55
聖書 マタイによる福音書6章22-24節
<中心聖句>
...
2016年06月19日 16:42
聖書 ルカによる福音書10章25-37節
<中心聖句>
10:27
「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、
...
2016年06月13日 10:04
聖書 マタイによる福音書18章10-14節
<中心聖句>
18章10節
「これらの小さな者を
一人でも軽んじないように気をつけなさい。」
イスラエルの民は羊や馬や牛などの家畜の群れと共に、水や牧草を求めて移動する人として暮らしていました。ですから、羊とか羊飼いは日常的な身近な存在でした。羊は柔和で素直で、従順な動物のように見えますが、実際にはなかなか言うことを聞かず、しばしば群れからはずれてしまうことがあるようです。ですから、羊飼いは絶えず目を光らせていなければならなかったようです。
12節「あ
2016年06月06日 06:29
聖書 エフェソの信徒への手紙4章11-13節
<中心聖句>
14章11節
「ある人を使徒、
ある人を預言者、
ある人を福音宣教者、
ある人を牧者、教師とされたのです。」
教会のはじめを語るのに、いきなり使徒、預言者、福音宣教者、牧師、教師というような教会で働く人の役目が記されていることは、ある人にはわかりづらいかもしれません。
なぜなら、教会はペンテコステにおいて、聖霊を与えられたところから誕生した、と言われているからです。
それでは、聖霊によっ
2016年05月30日 10:07
聖書 ヨハネによる福音書21章1-14節
<中心聖句>
21章14節
「イエスが死者の中から復活した後、
弟子たちに現れたのは、
これでもう三度目である。」
この前の章の20章19節では、イエスの弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分のいる家の戸に鍵をかけていたと記されています。
そこに復活のイエスが現れ「あなたがたに平和があるように」と祝福されました。しかし、トマスはそこにいなかった。それで20章25節「トマスは言った。あの方の手に釘の跡を見、この手をそのわき腹にいれてみなければ、わたしは決して信じない」と言い張り