宣教

2016年03月14日 06:26

2016.3.13 宣教「一粒の麦」

聖書  ヨハネによる福音書12章20-26節 <中心聖句>      今朝の中心聖句は、みなさんが暗礁聖句とされている方も多いと思いますが、聖書の中でも大変有名なことばです。  ...
2016年03月07日 20:35

2016.3.6 宣教「天の父よ」

聖書    マタイによる福音書6章9-13節 <中心聖句> 6章9節 「天におられるわたしたちの父よ。」    神が天におられるという思想は、旧約時代の人々が素朴に考えたことであったと思います。天が神のいる場所であるというのは、物理的に天を指しているのではなくて、それは神が「聖なる場所」にあるということではないでしょうか。    では、この「聖なる場所」におられる神が、どうして、この汚れた世に住む私たちにとって「わたしの父」となってくださったのでしょうか。それは「天」の高きところにあるお方が、その高きところから、この世の最も低きところにまで、自らを低くなさ
2016年02月29日 11:50

2016.2.28 宣教「神の熱情」

聖書  ホセア書11章1-9節 <中心聖句> 11章8節 「ああ、エフライムよ、お前を見捨てることができようか。」    ホセアは紀元前8世紀の北イスラエル王国において登場した預言者であります。 当時、イスラエルの国は繁栄の時代であったが、神への背信は進みバアル礼拝が宮廷や神殿で公然と行われていました。大国アッシリアの軍事脅威が迫る中、国内は政治的陰謀と腐敗が宮廷にとどまらず、民の中にも詐欺行為や悪事が横行し、その結果、北イスラエルは滅亡へと突き進んでいきました。    また、ホセアという預言者は、自らの家庭の悲劇を体験します。 ホセアは
2016年02月23日 07:15

2016.2.21 宣教「何が見えるか」

聖書 エレミヤ書1章11節~13節 <中心聖句> 1章11節 「主に言葉がわたしに臨んだ。      『エレミヤよ、何が見えるか。』  私は答えた。       『アーモンドの枝が見えます。』 」    本日は、北本教会牧師 石川栄一牧師より 宣教をお願いいたしました。          
2016年02月14日 20:16

2016.2.14 宣教「必要なことはただ一つ」

聖書 ルカによる福音書10章38~42節 <中心聖句> 42節 「必要なことはただ一つだけである。     マリヤは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」    「良いサマリヤ人」に続いてこの「マルタとマリヤ」の話が語られています。    38節から「一行が歩いていくうち、イエスはある村にお入りになった」と書き始めています。マルタはイエス様の一行がこの村(ベタニアだろうと思われます)に入って来た時に、喜んで家に迎え入れました。マルタは自分の客を一生懸命にもてなしました。  39節「彼女にはマリヤという姉妹がいた。マリヤは
2016年02月07日 20:29

2016.2.7  宣教「神に感謝する」

聖書 フィリピへの信徒の手紙1章3-11節 <中心聖句> 1章3節 「わたしの神に感謝します」    この手紙は最初の3節に「わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し」という言葉が記されています。    わたしたちは、手紙を書く時に時候の挨拶を書きますが、すぐ、そのあとに「わたしは、わたしの神に感謝する」と書くことが出来るでしょうか。 また、もし、そのように書かれた手紙を現実に受け取ったらどうでしょうか。 その手紙の内容はどうであるにしても、それを書いた人の生活に心を打たれると思います。 ある意味で信仰生活をして
2016年02月01日 07:53

2016.1.31 宣教「天のしるし」

聖書 マタイによる福音書16章1~4節 <中心聖句> 3節 「このように空模様を見分けることは知っているのに、               時代のしるしを見ることができない。」    1節に「ファリサイ派とサドカイ派の人々が来て、イエスを試そうとして」とあります。  この「試みる」という言葉はマタイ福音書4章1節の「悪魔に試みられるためにイエスは荒野に導かれた。」とあるように悪魔の試みを言い表した言葉を用いています。したがって、この言葉はとても重要な意味を持っていたと考えられます。今イエスを試みるのは、ユダヤの指導者です。  多くの群衆がキリストに傾い
2016年01月18日 09:05

2016.1.17 宣教「罪のゆるし」

聖書 コリントの信徒への手紙Ⅱ 5章16-21節 <中心聖句> 17節 「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、             新しく創造された者なのです。」    5章16節「それで、わたしたちは、今後だれをも肉に従ってしろうとはしません。」 この「肉による」というのは、神から離れた思いのことです。神から離れた知識であります。また「だれをも」という言葉の中に自分自身も入っています。自分自身の姿を見るときにも、神が見てくださるように自分を見る。そんなことが出来るのでしょうか。    パウロは、そのことをすぐに説明するように、こ
2016年01月11日 09:02

2016.1.10 宣教「聖徒の交わり」

聖書 ヨハネによる福音書17章1-19節 <中心聖句> 17節 「真理によって、彼らを聖なる者としてください。             あなたの御言葉は真理です。」    使徒信条は「聖なる公同の教会」に続けて、「聖徒の交わり」を信ず、と告白しています。聖徒というのは教会に連なる信徒のことです。    「聖」と言いますと、私たち日本人はすぐに「神聖」なもの、倫理的に汚れのないものを浮かべますが、聖書が「聖」という場合、神によって選び分かたれたものという意味を指しています。神に召し集められたもの、または神に属するもの、といっても良いと思います。
2016年01月03日 21:32

2016.1.3 宣教「霊に燃え、主に仕え」

聖書 ローマの信徒への手紙12章9-16節 <中心聖句> 11節 「怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。」    パウロは、この12章以下で、キリスト者の実践の基本は「愛」である、と教えています。    9節の「愛には偽りがあってはならない。悪を憎み、善から離れず」と、パウロは「愛」を教えるにあたって、まず最初に否定的、消極的な表現から始まっています。これはパウロは「愛」という美しい問題を取り上げる時にも夢のような理想主義ではなく、現実の罪と汚れに満ちた愛というものを知っている立場で、このように勧めているのです。「愛」が罪によって汚されている

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