2015年04月07日 16:47
聖書 ヨハネの手紙 第一 4章7-10節
<中心聖句>
10節
わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償う
いけにえとして御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。
イースターおめでとうございます。
人間が生きていくという上で、もっとも根本的な問題は、人間の罪と、人間の死です。
その罪と死に打ち勝っていく道は、キリストが十字架にかかって、我々の罪の贖いとなる
ということです。
キリストが死んで、葬られて、黄泉にくだって3日目に復活するという、このキリストの
2015年03月30日 08:11
聖書 ルカによる福音書23章20-25節
<中心聖句>
15節 「この男は死刑に当たるようなことは何もしていない」
イエスの生涯の中での最後の一週間は受難週として、私たちはキリストの苦難を想い返す
大切な時をとして過ごします。特に木曜日の夜に行われたイエスの審判から、十字架の決定
に至るまでの経過の記述は、それぞれの福音書は、実に詳細に記しています。
イエスの最終的審判者であった総督ピラトという人物は、自分がしなければならないことを
知りながら、いざという時にはそうすることの出来ない、いえあゆる現代人の代表的
2015年03月23日 07:29
聖書 ヨハネによる福音書13章21-30節
《中心聖句》
21節
「はっきり言っておく。あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている」
21節~30節までの記事は、ユダの裏切りの話です。
主イエスが、ここで大変厳しい思いでユダの裏切りを見据えておられることに心を打たれます。
しかし、弟子たちは最後まで、ユダが裏切ることに気がついていません。
29節には「ある者は、ユダが金入れを預かっていたので、『祭りに必要なものを買いなさい』とか、
貧しい人に何か施すようにと、イエスが言われたのだと思っていた」と記されているのです。
2015年03月15日 17:35
聖書 マルコによる福音書8章27~30節
<本日の中心聖句>
29節「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」
ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」
使徒信条の「我は信ず」とは、一見、自分の主観的な思いを述べているように考えるかもしれません
が、使徒信条が告白していることは、初代教会が告白してきた信仰の内容「神の独り子、我らの主、
イエス・キリスト」に始まる、キリストについての告白を、自分もまた告白するということです。
東方教会(トルコ、中近東、ヨーロッパの一部)で活動していたアリウスという人が「
2015年03月08日 19:15
聖書 エフェソの信徒への手紙2章1~10節
<本日の中心聖句>
10節 「わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備して
くださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。」
ここで「わたしたちは神に造られたものであり・・・」は、口語訳聖書では「わたしたちは神の作品であり」
と訳されています。
旧約聖書の創世記1章27節には「神は御自分にかたどって人を創造された」とあります。
では、神の形とは何でしょうか。
それは、本質的に神に応答するものとして、人格が与えられたということです。
この神と人間との人格的な関係の崩壊が罪ということです
2015年03月01日 20:23
聖書 マタイによる福音書10章16~23節
<本日の中心聖句>
マタイ10:16 「蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。」
現代に生きる私たちにとって、迫害などは、どうにも自分たちには縁のないものだと考えます。
17節では「あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれるからである。」とあり、18節
では 「わたしのために総督や王の前に引き出される」と記されています。
しかし、この時の12人の弟子たちがローマの総督の前に引き出されたわけではありません。
主イエス・キリストが十字架で亡くなられて、復活して、それから弟子たちが聖霊を受けて教会を
作った。伝道の命令を
2015年02月22日 19:30
聖書 ヨブ記1章1~11節
<中心聖句>
1章1節 「無垢で正しい人で、神を畏れ、悪を避けていた。」
...
2015年02月16日 10:11
聖書 創世記1章1~19節
<中心聖句>
1節 「初めに、神は天地を創造された。」
キリスト教をどのように考えるかと言う点において、この「天地創造」の記事があることは、広く知られています。
現代人の多くは、これを神話に過ぎないと受け取っています。
3~5節に、6日にわたる神の天地創造の記事が続きます。
私たちが使徒信条で「天地の造り主を信ず」と告白しているときに、何よりも注意しなければならないことは、天地創造のプロセスを逐語的に信じると言っているのではありません。時間というのは、神の領域です。
たとえば、一日といっても、それは私どもが生活している一日の意味ではなく「神のもとでは
2015年02月09日 11:42
聖書
ローマの信徒への手紙10章14-17節
<本日の中心聖句>
17節「信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」
今、私どもが、共に信仰告白を唱えました「使徒信条」には、「我は全能の父なる神を信ず」「主、イエス・キリストを信ず」
「聖霊を信ず」「永遠の命を信ず」と4回繰り返されています。
使徒信条においては、どちらかと申しますと「わたし」ではなく「私どもはこう信じる」と言ったほうが気が楽なところがあります。
しかし、信仰というのは「わたしひとり」が問われていきます。
「このわたしが、何を、いかに信じるか」ということを、自分で
2015年02月02日 12:14
聖書
ヨハネによる福音書15:1-10
<中心聖句>
9節 「父がわたしを愛したように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。」
本日の宣教は「キリストの愛につながる」と題して安増幸子牧師よりお話をして頂きました。
イスラエルに行きますと、いたるところに「ぶどうの木」があります。詩編80:9~10には「あなたはぶどうの木をエジプトから移し、・・・・ この木は地に広まりました。」とあります。ぶどうの木とはイスラエルの民にとって最も身近な木であったようです。そこで、イエス様は、ぶどうの木を通して、私たちにもっとも大切なことを教えられました。それは兄弟愛・・・