説教要旨 「道・真理・命」 ヨハネ福音書 14:1-14

 開口一番の「心を騒がせるな;タラッソー」の原意は、水を掻き起こすなとの意味で、主御自身が心掻き立てられた状況で何度か用いられた御言です。主は弟子たちの動揺を手に取るように理解された上で、この御命令を力強いお励ましとして下されました。何をも怖れず、心騒がせず、今こそ、全きに信仰に立つべき時であると。

 2節の「住む所」とは、天上で、主の弟子たちないしキリスト者たちが主と共に宿る場所を指しますが、主が御用意をしに天に昇られるのは、「住居」の場所の選別よりも、そこへ迎え入れられる「住人」を御父と共に選別されるためであられましょう。

 「主よ、どこに行かれるのですか? その道を知るには?」と問いかけるトマスに、主は6節で「わたしは道であり、真理であり、命である」と答えられましたが、それは「わたしこそが、真理への唯一の道、永遠の命への唯一の道である」という意味に解せます。

 「真理」の端的な定義は難しいですが、神学者のブルトマンは「主イエスの中に神御自身を啓示せられ、出来事と成りつつある神の現実性そのもの」と述べ、「真理」とは、神概念や、神そのものではなく、「進行中の神の出来事」なのだと説きました。 

 つまり、人類の救いの御計画、十字架上での罪責の贖い・尊い犠牲、御父との和解・神の義の付与、究極の愛の発動・執り成しの祈り、そして、キリストの降誕・現臨・再臨・・そうした神の出来事をすべてを総括して「真理」と呼んでもよいのではないか、ということです。そう定義するならば、私たちは「イエス様を通してでなければ、天の御父の御許へゆくことは決してできない」こととなります。

 8節でのフィリポの「御父を示してください」に、やや業を煮やされた主は、くどいほど「わたしが父の内におり、父がわたしに内におられる」を繰り返されましたが、その中にも「真理」ということの内実が告げられています。ですから14節で主はこうも言われるのです。「わたしの名によって何かを(御父に)祈り願うならば、(御父とひとつなる)わたしがかなえてあげよう」と。

 それは、「道・真理・命」を司られる御父と霊的に繋がっておられる証として、主御自身を顕されるためでもあられましょう。主イエス様の御名を通した「祈り」は、なんと崇高な信仰の営みでありましょうか、そして、なんと喜ばしき神様へのお仕えでありましょうか。私たちの「祈り」の前には常に、麗しきイエス様が立っておられるのですから。 

 

 



 

 

宣教

2015年01月26日 11:32

2015.1.25 「聖餐にあずかる者」

聖書 ルカによる福音書14章15~24節 <礼拝の中心聖句> (14:23) 主人は言った。『通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ。』       ここである人が宴会をしようと人々を招待しました。そしていよいよ準備が出来たので一件一件丁寧にお迎えに行くわけです。 ところが、ある人々が皆断ってしまう。「畑を買ったので、見にいけねばなりません。」「牛を2頭ずつ5組買ったので、それを調べに行くところです。」また「わたしは妻を迎えたばかりなので行くことができません。」というのです。どれもこれも考えてみると、畑を買ったからと言って畑が動いてなくなる

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