2018年08月01日 06:46
聖書 マタイによる福音書11章1-19節
今日の個所は洗礼者ヨハネの問いに始まります。2-3節「ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。そこで、自分の弟子たちを送って、尋ねさせた。『来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たねばなりませんか。』」つまりイエスという方は、本当にメシアなのでしょうか、という疑問です。獄に捕らわれの身となっているヨハネは真剣に問いました。イエスはヨハネとその弟子たちに4-5節「イエスはお答えになった。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえな
2018年07月25日 16:37
聖書 ヨブ記3章1-26節
ヨブ記1,2章にはヨブの試練が記されていますが、試練とは物質的なもの、財産であるとか、目に見える幸福の要素を初めに崩壊させていきます。具体的に家族が事故にあう、病気になる。こういう試練は毎日のように行われているのであって、いつ自分の身に起こるか分かりません。
ヨブ記は1章の13節には「彼が話し終わらないうちに」、また17節に「彼が話し終わらないうちに」、18節に「彼が話し終わらないうちに」と次から次に連続して災害が起こる様子が記されています。2章9節において今度は妻の要求があります。「どこまで無垢でいるのですか。神を呪って死ぬ方がましでしょう」と。それに対して、
2018年07月16日 17:54
聖書 マタイによる福音書10章34-39節
34-36節には「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和でなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、娘を母に、嫁をしゅうとめに。こうして、自分の家族の者が敵となる」と記されています。何事かをするために「わたしが来たと思ってはならない」「平和をもたらすためだと、思ってはならない」つまり、イエスが否定しておられるのは、平和をいとも簡単に与えるという、たやすいやり方を否定しておられるのです。キリストの平和は、むしろ剣の後から訪れるのだというのです。この「剣」というのは、家族の最も親
2018年07月03日 16:41
聖書 マタイによる福音書10章16-23節
イエスはガリラヤで伝道を始められました。イエス自らが人々の具体的な生活の場で、神のことを話し、罪を悔い改めることを求められました。山の上であったり、ガリラヤの湖畔であったり、路上であったり、それぞれ人間が働き、懸命に生きているその現場で、イエスは人々に語りかけられたのでした。多くの村を訪ね、多くの人に出会われましたが、「収穫は多いが、働き手が少ない」のをごらんになって、12人の弟子を各地に遣わして、伝道することをお命じになりました。その派遣にあたり、弟子たちに語られた言葉がこの有名な勧めです。「あなたがたが遣わされていく場は、たとえれば、狼の群れの
2018年06月26日 17:53
聖書 マタイによる福音書10章1-15節
主イエスの伝道の生活は、決して一人で働いておられたのではありません。ここに12弟子を同志としてご自分のもとに集められ、この12人の弟子たちを、町や村に派遣をされて伝道をさせておられます。1節「汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いを癒すためであった」と記されています。現代のわたしたちは使徒の使命を受け継ぐ者です。7-8節には、「行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい」と命じられてい
2018年06月17日 21:23
聖書 ヨブ記1章1節ー22節
旧約聖書のヨブ記は、人間の苦しみとは何か、またその苦しみから逃れる道はどこにあるのかを教えており、苦難の問題を記した書として有名です。旧約では罰のない罪はありません。罪を犯した後には必ず罰が訪れるとされていました。しかし、ヨブ記の主題は理由なき苦難です。義人が苦しむのはなぜか。ヨブはユダヤ人ではありません。これは一般的な一人の人間の苦難としています。人生の苦難は予告なしにやってきます。ここで問われているのは、神が正しい方で、愛の方であるなら、どうしてこのようなことが起こるのか。悪いものが栄え、正しいものが嘆くという矛盾がなぜ起こるのかということです。やがて、ヨブ
2018年06月12日 07:47
聖書 マタイによる福音書9章27-38節
27節「イエスがそこからお出かけになると、二人の盲人が叫んで、「ダビデの子よ、私たちを憐れんでください」と言いながらついて来た。」ここで「ダビデの子よ」とは、救い主を意味して、メシアの称号です。しかし、30節で「二人は目が見えるようになった。イエスは、『このことは、だれにも知らせてはいけない』と彼らに厳しくお命じになった。」当時、ユダヤの人々は救い主を待ち望んでいました。しかし、救い主であることが明らかになる場面で、イエスは「だれにも知らせてはいけない」と厳しくお命じになったのです。しかし、この二人の盲人は、出て行くや否や、主イエスのみわざを言い広め
2018年06月11日 08:44
お花がいっぱいの中で礼拝・・・そしてお見舞いに
日本では、一般に「子どもの日」と言えば5月5日ですが、キリスト教会では
6月の第2日曜を「子どもの日・花の日」と言います。これは、1856年から
アメリカの教会で始まったそうです。
この礼拝は子ども達が健康に成長することだけではなく、生涯、神様に従い
人に仕えて生きる者となるように祈りを捧げるために行われたそうです。
また、その席にたくさんのお花が飾られたことから「花の日」とも呼ぶように
なりました。
水元教会の会堂にもたくさんのお花が飾られました・・・
礼拝は大人と子どもと一緒の合同礼拝です。
2018年06月06日 06:22
聖書 マタイによる福音書9章14-17節、エレミヤ書31章31-34節
14節「そのころ、ヨハネの弟子たちがイエスのところに来て、『わたしたちとファリサイ派の人々はよく断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか』と言った。」このヨハネというのは洗礼者ヨハネです。当時、信仰に熱心な人であれは、断食をして食を断つことをしました。何のためにするのかというと、神との契約が切れることを悲しんで断食がなされたと言われています。15節で主イエスは「『花婿が一緒にいる間、婚礼の客は悲しんむことができるだろうか』」という質問をされました。さらに15節の後半で「しかし、花婿が奪い取られる時が
2018年06月01日 08:49
5月27日㈰ 午後から北千住教会でお餅つきをしました!
礼拝後、自家用車に分乗して水元教会から9名が参加しました。
北千住教会に到着すると、すでに一回目のもち米が蒸し終わり、まさに・・・
これからお餅つきが始まろうとしていました!
さあ! 水元もお手伝いを!!!
水元のお餅つき名人2名(笑)も、即参加しました・・・・
つき始めていると堀切教会からも5名が到着!にぎやかです!
あんこ・きなこ・大根おろし・お雑煮の準備もOKでした!
それから、お餅は「草餅」もありです! スゴイ!
好きなものを器に入れてもらって、いただきま~す!