宣教

2024年08月05日 12:58

2024.8.4 宣教「わたしが与えるパン」

聖書 ヨハネによる福音書6章41-51節  43節「イエスは答えて言われた。『つぶやき合うのはやめなさい』」イエスはつぶやきを叱責されました。続いて44節「わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。」」と言われました。父の選びと救いを説明するために、45~46節でイザヤ書54章13節「あなたの子らは皆、主について教えを受け あなたの子らには平和が豊かにある。」を引用しています。父の選びによって人は救われると語りかけています。神の招きがなければ、わたしたちも教会に来ることはありません。そしてイエスの教えに
2024年07月28日 15:19

2024.7.28  宣教「わたしのもとに来る人」

聖書 ヨハネによる福音書6章34-40節  ヨハネ福音書が生まれた当時の教会は、いつもローマの国家権力の圧政下にありました。そのような中でヨハネは35節「わたしが命のパンである」と書き留めました。37節「父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人をわたしは決して追い出さない。」しかし、人々は主イエスのパンの奇跡を見ても、主イエスが神から遣わされたのだということを信じることが出来ませんでした。そこで、父なる神が、わたしに与えてくださった人は、わたしを信じると言われたのです。「わたしが命のパンである」と言われる方を、信じる人と信じない人がいます。信仰と不信仰がありま
2024年07月28日 15:11

2024.7.21  宣教「イエスは命のパン」

聖書 ヨハネによる福音書6章22-35節  27節「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである」とあります。物質的生活だけが人生のゴールになってはいけないとイエスは言われました。ここに「朽ちる食べ物」と「永遠の命に至る食べ物」の対比があります。朽ちる食べ物は体の維持するための食べ物です。食べてしまうとなくなります。もう一つの「永遠の命に至る食べ物」とは、霊的食物、つまり神の言葉です。そして「人の子」メシアであるイエスが「与える食べ物」とは何かというと、
2024年07月14日 17:02

2024.7.14 宣教「わたしだ、恐れるな」

聖書 ヨハネによる福音書6章16-21節  五つのパンと二匹の魚で五千人に食事を与えられたイエスの奇跡により、群衆はイエスをガリラヤの王にしようとしました。そこでイエスは一人で山に退かれました。ここにイエスと群衆の間に大きなギャップがあります。 16-17節「夕方になったので、弟子たちは湖畔に下りて行った。そして舟に乗り、湖の向こう岸のカファルナウムに行こうとした。既に暗くなっていたが、イエスはまた彼らのところには来ておられなかった。」イエス御自身は、山に登って祈っておられました。弟子たちだけで舟に乗って向こう岸へ向かいました。ここにも...
2024年07月07日 04:38

2024.7.7 宣教「パンと魚の奇跡」

聖書 ヨハネによる福音書6章1-15節  このパンと魚の奇跡は4つの福音書に記されています。それほど12弟子にとっては忘れられない体験だったのでしょう。多くの群衆がイエスの後を追ってついて来ました。その数は男だけでおよそ5千人でした。イエスは弟子のフィリポに「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われた。6節「こう言ったのは、フィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているかを知っておられたのである。」とあります。7節「フィリポは『めいめいが少しずつ食べるためにも二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう』と答えた。」そこへシモン・ペトロの兄弟アンデレが、
2024年06月30日 05:24

2024.6.30 宣教「なぜ、信じるのか。」

聖書 ヨハネによる福音書5章41-47節  どうしてキリストを信じられるのか。どのようにして信仰まで導かれたのか。だれが導いたのか。逆にキリストを信じることができない人から見れば、そのような問いがあるのではないでしょうか。44節の終わりに「あなたたちには、どうして信じることができようか」とあるように、信じることはできないと言われているようです。少し遡って2章24節でも「イエス御自身は彼らを信用されなかった」とあります。イエスは神の民ユダヤの人々を信用なさらなかった。なぜかと言うと、2章25節後半「イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである。」どうしたら信じられるかということ
2024年06月16日 04:56

2024.6.16 宣教「四つの証言」

聖書 ヨハネ福音書5章31-40節  ここに「証し」と言う言葉が11回出て来ます。あるいは「真実」ということが用いられ、これは法廷用語です。裁判では証言が信用されるか、信用されないかが問題となります。ここで主イエスが父なる神の子であるかどうかが問われています。31-32節「もし、わたしが自分自身について証しをしているなら、その証しは真実ではない。わたしについて証しをなさる方は別におられる。そして、その方がわたしについてなさる証しは真実であることを、わたしは知っている。」とあり、四つの証人が記されています。一番目はバプテスマのヨハネです。33-35節「あなたたちはヨハネのもとへ人を送ったが、彼は
2024年06月09日 19:09

2024.6.9 宣教「死から命へ」

聖書 ヨハネによる福音書5章19-30節  今朝は、あなたはイエスを誰だと言うのかというテーマです。第一にイエスと父は一体である。行動において一体である。19節「そこで、イエスは彼らに言われた。「はっきり言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。」子供が父親のしていることを見て、それをまねをすることは親子関係について言えることです。「子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない」とあります。5章ではイエスは38年間病気だった人をいやしました。父がなさることは何でも子も同様に行うとすれば、あの癒しは父の御
2024年05月28日 06:07

2024.6.2 宣教「安息日論争」

聖書 ヨハネによる福音書5章10-18節  先週の続きです。イエスはベトザタの池のほとりで、38年間病気で苦しんでいる人に「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」と言われました。誰も信じることが出来ない奇跡が起こりました。10節「今日は安息日だ。だから床を担ぐことは、律法では許されていない。」38年間も寝ていた人は癒されたが、安息日に床を担いだことが違反となったのです。この人は癒されたのは嬉しかったのですが、床を担いで歩いたことは新しい悲劇となりました。そこで、11節「しかし、その人は「わたしを癒してくださった方が『床を担いで、歩きなさい』と言われたのです」と答えた。」つまり自分が床を担い
2024年05月26日 07:17

2024.5.26 宣教「起きて歩め」

聖書 ヨハネによる福音書5章1-9節  人々が祭りの中でにぎやかにしている時、遠いエルサレムへの道のりを歩き続けて来られたイエスは、ひたむきにベトサダの池に足を運ばれた。3節「この回廊には、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていた。」この池の水が動く時、真っ先に飛び込んだ者はその病気を癒されるということを信じて、必死になってその水の動くのを見つめていた。イエスは、そこで38年間も病床にあるという一人の男に目をとめられた。池の水が動く時、真っ先に飛び込んで癒されること、これがこの人の悲願だった。が、いつも他の人に先を越されてしまう。イエスはこの人に「良く

サイト内検索

お問い合わせ先

水元教会 東京都
葛飾区水元2-5-9
125-0032
03-3607-0910