25/8/10    「初めから主と共に」 ヨハネ福音書 15:18-27

 

 この福音書の時代背景は、キリスト者が、ローマ帝国及びユダヤ教徒による四面楚歌の様相を呈し、唯々上を見上げなければ一歩も進めぬ状況にありました。よって、この福音書の特徴は、例えば18、19節のように「憎む」という表現を用いて、白黒、善悪を際立たせることにより、キリスト者としてのアイデンティティ(独自性・同一性)や孤高性を鼓舞する意図が大いにありました。

 また、19節のユダヤ教徒たちによる迫害は、彼らも昼夜、御父なるヤハウェを拝み崇めていながら、その御父が主イエス様を遣わされた御当人とは「知らぬ」ゆえの所業でありました。この「知らぬ」というのは、単に無知ということではなく、頑なで「知ろうとしない、受け入れようとしない」という罪を孕む言葉であり、これをテキストでは、「主を憎んでいる」とも表現しています。

 これまでは、この世と主ないしキリスト者との関係は、この世から謂われなき迫害や攻撃を受ける立場でありました。ですが、26節からは、真理の霊なる聖霊の御働きにより、今度はキリスト者が、世に向かって証しをする立場が描かれ、ストローク(働きかけ)の矢印が逆となります。

 27節の「初めからわたしと一緒にいた」という「初め」とは、地の創造以前のことで、そのときから、キリスト者は主と共にずっと在ったと考えられます。それゆえ、二千年も前の十字架刑による主の贖いの御業を、主の死後の復活を、御父と御子の霊なる聖霊の降臨を、すべて真実のこととして、この自分のこととして、今、信じることが出来るのです、誰に強制されたわけでもなく・・これは一種の奇跡でありましょう。

 そして私たちは、元々主を「知っている」という特典の中にいるからこそ、「主を証しする」という責任を帯びています。この「証し」は自力で絞り出すものではなく、聖霊が私たちの口を通して、雄弁に大胆に語らせてくださるのです。苦悩が恵みに、嘆きが賛美に変えられた、人生の大逆転が語られるところでは、主が今生きて、働いておられる証しが炸裂致します。また、それは言葉でなくとも、私たちキリストの生き方や考え方そのものが、立派な主への証しとなるのです。

25/8/3 「 友のため、命を捨てる」 ヨハネ福音書 15:11-17

 

 これまで主が、弟子たちに何度も繰り返し告げられた、12節の「互いに愛し合いなさい」は、13節の「友のため、自分の命を捨てること、これ以上の大きな愛はない。」に至って、その真髄、究極に達します。

 「友のため、自分の命を捨てる」とは、「イスラエルの救いのためならば、自分が神に呪われた者となってもよい」というパウロや、「同胞の救いのためならば、神の書(命の書)から自分の名が消されても構いません」というモーセの、命懸けの執り成しを想起致します。また、キリスト教の大迫害時代の多くの殉教者たちが、自分の命を捨てでも主への信仰を貫いたのは、キリスト教を継承してゆく未来の″友”、即ち、私たちキリスト者のためでありました。更に「友のため、命を捨てる」とは、かけがえのない大切なもの=自分が命とも思って握りしめている有形ないし無形のものを、その友にために、手放す、捨て去る、差し出すことをも、含意致します。

 私たちにとってのそうした「友」とは、主は誰を指しておられるのでしょう? 14節で「わたしの命ずることを行うならば」との条件下、「互いに愛し合いなさい」との号令下に、教会に集められる兄姉たちも、所謂気の合うお仲間や、無条件に愛せる血縁者ばかりではありません。けれども、教会の兄姉は、他人同士の緩い集合体に見えましても、根幹の主イエス・キリストによって堅くひとつに結ばれている集合体であって、御国の門までひとつとなって歩んでゆく生命体の塊です。ゆえに、そうした私たちが「互いに愛し合う」のは、ごくごく自然な行為で、自分を愛し、イエス様を愛することとイコールなのです。

 16節の「選びと任命」は、「出かけて行って実を結び、その実が残るように」という、伝道の行いと、そのアフターケアを伴うものです。そして、「互いに愛し合う」という主の掟は、「願うものは何でも与えられる」という御約束とワンセットになられています。それゆえ、「命を捨てる愛」は大きな痛みを伴いますが、それにも増して余りある大きな祝福を、主は「”友”なる私たち」に御用意くださっておられるのです。

 

25/7/27 「唯一の救い主(第一戒)」出エジプト記19:3-9,20:1-3 

 

 私たちは、主の十字架の下で震えを覚えるように、モーセが授与した十の御言の前に震えを覚えなければなりません。それは、十戒の全てが、ロマ書8章の「私たちすべてのために、その御子をさえ惜しまずに死に渡された御方は、御子と一緒にすべてのものを私たちに賜らないはずがありましょうか」という、人知を超えた御愛に満ちておられるからです。十戒を遵守する者に主は、「私の宝」「祭司の王国」「聖なる国民」という最高の栄誉を約束されています。

 第一戒「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」は、ヘブル語直訳では「あなたが、わたしの面前に、神々を置くことなどありえない!」となります。「神々」とは偶像だけでなく、御使いをも指し、天使礼拝は堅く禁じられている一つです。また偶像は「あなたの宝のあるところにあなたの心もある」と言われているもので、最も堅固で難儀な偶像は「自分自身の“腹”」でありましょう。

 偶像は、「エジプトの国」「奴隷の家」に象徴され、当初は、解放感や自由、満足を与えてくれるように誘いますが、やがて虜にされていることに気付いたときには、抜け出せなくなっています。十戒の導入部は、現実的な状況を突き抜け、改めて認識させるのです、私たちは多少苦しくとも「唯一の救い主」なる主の御前に立ち続けることを選ぶか、虚しい偶像に帰依して、最終的に奴隷の身分に縛られ続けるか、を・・・。

 ソドムを主が滅ぼそうとされた時、アブラハムは執り成しを願い出、主との問答の末、主は宣言されました。「その十人のために、わたしは滅ぼさない」と。この御言は、水元教会の礼拝を守るお一人一人が、この水元の町を始めとする地域一帯の救いのための「正しき十人」であるという宣言にほかなりません。

25/7/20 「主はまことのぶどうの木」 ヨハネ福音書15:1-10

 1節で「わたしはまことのぶどうの木」と宣言される主は、続いて「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな(農夫である)父が取り除かれる。」と述べられ、そこから御父は、怖ろしい裁き主であられるとの先入観が横行しています。

 敢て「先入観」と申しますのは、ぶどうの栽培方法をパソコン検索しますと、いきなり「実を結ばない枝はみな取り除く」という乱暴な工程はなく、むしろ結実のためには、葉の光合成が十分行われるように配慮することが大切で、実がついていないが葉が茂っている枝にも大切な役割があることが記されているからです。例えば、うどん粉病に罹った葉と枝は、丁寧に水で洗ったのち、支柱などを立てて十分日光に当て、風通しがよいように茂った葉を刈り、高く掲げるのです。すると、豊かな結実が与えられるとのことです。

 それは語彙の面からも、「取り除く:アイロー」という動詞には、その訳の上位に「掲げる」という意味があり、1節は「農夫なる御父が(結実のため日光や風が十分当たるよう)高く掲げられる」との訳が、主の御心に適っていると考えられるのです。

 1節は、主に繋がっていながら、実を結ばない信仰者の譬えでしたが、6節は、主に全くつながっていない者の話で、「火に投じる」というのは、裁きの座において、はっきりと右と左へと分けられる様が示されています。ですから、9節において主は「わたしの愛にとどまりなさい」と告げられるのです。この御言は単なる命令ではあられず、「わたしがあなたがたをこれほどまでに愛してきたのだから、あなたがたは、わたしの愛に包まれ、わたしにとどまっていてよいのだよ」という御赦しの御言であられましょう。また、この「とどまる;メノー」という言葉は「待つ、待ち続ける」との意味も擁し、再臨の主を待望するという意味を含意します。

 主の御愛にそのように包まれるにあたって、守るべき掟はやはり「互いに愛し合いなさい」ということであります。1:18で「父のふところにおられる独り子」という関係のお二人の神様は、その境目が分からないほどに、密接な愛の関係を保っておられます。そして私たちも、主とそのような関係を入ることを主は強く望んでおられるのです。

 ぶどうの木なる主とつながっていることこそ、その枝なる私たちのライフラインであり、主にこの世に遣わされて生きてゆく、私たち其々のこよなき意味と目的がそこから発信され、充実した働きのための聖霊の満たしも、そこから注がれてゆくのです。

25/7/13 主はあなたと共に住む」 ヨハネ福音書 14:15-31

 14節の主の御言「わたしを愛しているならば、わたしの掟を守るはず」の『掟』とは、13:34-35で示された「互いに愛し合いなさい」との主からの御命令です。その御心の背景として主は、21節で、御父の中に御子、御子の中にキリスト者という三重の円環を描かれ、キリスト者は、御父と御子とから発せられる聖霊に、大切に守護され、愛されている「特別な存在」であることを知らしめられました。

 イスカリオテのユダではないユダ(小ヤコブの子タダイ)の「私たちには御自身をあらわそうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、なぜでしょうか」という問いに対し、主のお答えは、主を愛する人(主の御言を守る人)と、主を愛さない者(主の御言を守らない者)とを区別されているとのことで、前者は、御父とイエス様と共に住む「天国の住人」にして頂ける光栄に浴するのでありますから、この区別は実に重大なのです。

    26節の「聖霊は・・わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」の「思い起こす;ヒュポミムネースコー」とは、「意識の上に呼び覚まされる」という使役の意味を持ちます。かつて主が語られていたことと、今、現実に起こっている事柄とがピタッと重なった時に生ずる、驚きを伴う心の動きで、すべては、弁護者なる聖霊の特別な働きによるものです。

 更に、27節で主がもたらされる『平和』とは、この世の平和とは異なり、キリストが共におられる霊的な世界の様です。キリストが御父と共に住まいを設けられ、永遠に共に住んでくださるという至福の世界・・この平和の世界は、主との確実な御約束に伴う平和、父なる神様との和解に基づく平和であります。

 30節で、ここにサタンが再登場してくる兆しの中、主は唯お一人、世の支配者を自称するサタンに立ち向かえる御方、かつ、サタンを逆に用いることのできる立場の御方として、確かに立っておられます。ですから主は、私たちをサタンから守り、真の平和をくださることがお出来になるのです。

 31節にて主は私たちに3つのことを促されます。「知れ」「立て」「行け」と。これらは、教会の礼拝式順に当てはめますと、①招き・悔い改め、②祈り・賛美・証し、③派遣・献身、への促しに相当します。はっきり申せば、神そして自分を知ることは怖いこと、今の一見安定した立場から立ち上がることも怖いこと、更に、行方も知らずに進み行くことはもっと怖いことです。でもそこに、主の御心、主の御愛、主の御臨在がありありとあられれば、心騒がせず、不安にならず、主の御許へ歩みゆくことが適います。

 そうです! 礼拝とはかような冒険への主の促しです、私たちのために十字架と復活を成し遂げられ、私たちに天国での共生を約束される偉大なる主を主人公とするドラマへの参加です、毎主日の礼拝は、言わば大それた挑戦であり、天国の前味わいの時なのです。かような礼拝に招かれ導かれ、心からの賛美と悔い砕かれた心とを主にお捧げするに至った私たちは、真から心が震えて来るではありませんか!


 

25/7/6 「道・真理・命」 ヨハネ福音書14;1-14

 開口一喝「心を騒がせるな!」は、主御自身の内面が掻き立てられた状況で、何度か用いられてきた御言です。13:33で「わたしが行くところに、あなたたちは来ることが出来ない」と告げられた主は、弟子たちの動揺を、まるで手に取るよう理解された上で、この御命令を力強い御励ましとして下されました。「心騒がせずに、さあ、今こそ信仰に立つ時である。」と。

 2節の「住むところ」とは、天上で弟子ないしキリスト者が主と共に宿る所を指し、主はその御用意のために天に昇られると言われますが、それは「住居」の御準備よりむしろ、そこへ迎え入れられる「住人」を、御父と共に選択されるためであられましょう。

 「主よ、どこへ行かれるのですか? その道は?」と問いかけるトマスに、主は「わたしが道、真理、命である。」と並列されます。それは、「このわたしが、真理を辿る唯一の道であり、かつ、永遠の命へと至る唯一の道である。」とも解せられます。

 「真理」を端的に定義するのは難しいですが、神学者ブルトマンは「主イェスの中に神御自身を啓示して、出来事に成りつつある神の現実性そのもの」と、「真理」とは、神概念や神そのものではなく、″進行中の神の出来事”だと語るのです。つまり、人類の救いの御計画、十字架の贖い・貴い犠牲とか、父なる神との和解・神の義の授与とか、究極の御愛・執り成し(の祈り)とか、御子キリストの降臨・現臨・再臨・・そうした私たちの知りうる神の出来事をすべて網羅して「真理」と解せるということでしょう。さすれば、「わたしイェスへの信仰を通してでなければ、天の御父の御許へ行くことは、決してできない」ことに繋がります。

 8節の使徒フィリポの「御父を示してください。」との申し出に、ため息をつかれた態のイェス様は、くどいほどに「私が父の内にあり、父がわたしの内におられる」ことを繰り返されますが、その中にも「真理」の内実が語られています。そして、主は14節でこう告げられます。「わたしの名によって何かを願うならば、(御父の中にいる)わたしがかなえてあげよう。」と。道・真理・命なるイエス様と、そのイエス様の内におられる御父とも、霊的に結ばれている素晴らしい御証しとして・・。   ハレルヤ!

 
 

宣教

2023年06月25日 16:37

2023.6.25 宣教「この人を見よ」

聖書 ルカによる福音書23章13-25節  主イエスの裁判の記事を読みますと、なぜ主イエスは殺されたのか。なぜ、こういう許されないことが起こったのか?私たちは、主イエスの十字架での死は私たちの救いであり神の御計画だったと思っています。それはそうだとも言えますが、このような説明のつかない人間の不正をどのように受け止めてよいのかわかりません。22節で「ピラトは三度言った。『いったい、どんな悪事を働いたと言うのか。この男には死刑に当たる犯罪何も見つからなかった。だから、鞭で懲らしめて釈放しよう。』」ピラトは釈放すべきだと言いましいた。しかし、群衆がわめき続けて、ピラトは群衆の言うままに最後の責任を群
2023年06月19日 16:10

2023.6.18  宣教「神の宣教}

聖書 ヨハネによる福音書17章1~13節  今朝は、日本聖書神学校校長の神保望先生をお招きしての「特別伝道礼拝」でした。「永遠の命とは、真の神を知ること。それは頭で理解するのではなく、ただ神に信頼をよせること。」「私たちが、御子イエス・キリストを知るとは、教会の説教すなわち宣教にあること。」「宣教とは福音を宣べ伝えること。それは、私たちが福音による喜びに満ちあふれるために。」と明確に語ってくださいました。ぜひ、礼拝案内からクリックして神保先生の宣教を御覧ください。神保先生、ありがとうございました。
2023年06月12日 15:52

2023.6.11 宣教「神の沈黙の意味」

聖書 ルカによる福音書23章1-12節 今朝与えられた御言葉に導かれながら、真実の沈黙の意味を考えて、何よりも主イエスの沈黙に心を注いで考えていきたいと思います。ヘロデは、9-10節で「それで、いろいろと尋問したが、イエスは何もお答えにならなかった。祭司長たちと律法学者たちはそこにいて、イエスを激しく訴えた。」今こそ、ピラトやヘロデと言うこの世の権力者たちに正面からご自分の言葉をたたきつけてもよいのではないかというところで、主イエスは黙っておられる。なぜ黙っておられるのか。ヘロデはいらいらしたに違いありません。ヘロデの支配下にある人間は、ヘロデに問われたら答えなければいけない。ところが、主イエ
2023年06月05日 05:55

2023.6.4 宣教「キリスト、人の子、神の子」

聖書 ルカによる福音書22章63-71節  67節「『お前がメシアなら、そうだと言うがよい。』と言った。イエスは言われた。『わたしが言っても、あなたたちは決して信じないだろう。』」主イエスという方は、キリスト・イエスと呼ばれ、御自分は人の子と呼ばれ、また神の子とも呼ばれておられました。この肩書は、主イエスの役割、あるいは主イエスの職務とも言えます。主イエスは、いったい何をするためにこの地上に来られたのか。それを、キリスト・人の子・神の子という三つの肩書が言い表します。マタイ福音書16章13節からを読んでみますと、イエスがフィリポ・カイザリアに行く途中で弟子たちに「人々は、人の子のことを何者だと
2023年05月28日 05:28

2023.5.28 宣教「聖霊の力」

聖書 使徒言行録2章1-13節  2-4節「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた、そして、炎のような舌が分かれ分かれに現われ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、”霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出した」ペンテコステというのは、イエスの復活後、集まっていた信徒の上に神からの聖霊が降りた出来事です。1章15節には「120人ほどの人々が一つになっていた」と記されていますので、それほど多くの信徒の上に聖霊が降りたと思われます。そのとき大きな「音」がして「炎のような舌」が現れたというのです。信徒たちは、その場所で激しい経験をしま
2023年05月21日 20:13

2023.5.21 宣教「キリストのまなざし」

聖書 ルカによる福音書22章54-62節 今朝の聖書の記事にペトロが出て来ます。54節「人々はイエスを捕らえ、引いて行き、大祭司の家に連れて入った。ペトロは遠く離れて従った。」ペトロはカヤファの官邸の中庭に焚かれた「たき火」の周りにいた人々の「中に混じって腰を下ろし」たのです。ペトロはイエスの傍に入り込んでいました。56節「するとある女中が、ペトロがたき火に照らされて座っているのを目にして、じっと見つめ、『この人も一緒にいました』と言った。」とあります。ペトロはイエスに最も愛された弟子であり、また自分も最も忠実な弟子だと思ってイエスについてきたのです。そのペテロが「あなたもイエスの仲間だろう」
2023年05月14日 05:36

2023.5.14 宣教「闇の力の支配する時」

聖書 ルカによる福音書22章47-53節  48節「イエスは、『ユダ、あなたは接吻で人の子を裏切るのか』と言われた。」接吻するとは、愛する人への行為です。信頼関係を意味する愛情表現です。12弟子の一人であるユダの裏切りがここで現れています。53節の最後に「だが、今はあなたたちの時で、闇が力を振るっている」というみ言葉の意味は何でしょうか。なぜ、目の前に闇の支配が満ちて行われようとしていると言われたのでしょうか。主イエスの時代は、ローマ帝国が権力を振るい、迫害があり、闇の支配が続いている状況でした。しかし、主イエスのみ言葉は、絶望と無力の言葉ではありません。弟子たちは闇から光へ、悪魔の支配から神
2023年05月07日 04:51

2023.5.7 宣教「ひざまずくイエスの祈り」

聖書 ルカによる福音書22章39-46節  今朝の聖書は主イエスのゲツセマネの祈りと呼ばれている箇所です。主イエスは40節「誘惑に陥らないように祈りなさい」と弟子たちに語られ、46節ではもう一度「誘惑に陥らないように、起きて祈っていなさい」と言われました。弟子たちが誘惑に陥らない生活、そのための祈りの生活をすることをお示しになっておられると読むべきだと思います。私は、毎朝たとえば教会の前を歩いている小学生や中学生、子どもや孫を見て願うことは誘惑に負けないでほしいと、そのために祈ります。主イエスが弟子たちのために私たちすべての者のためにも祈ってくださっています。次に44節では「イエスは苦しみもだ
2023年04月30日 05:20

2023.4.30 宣教「衣を売って剣を買え」

聖書 ルカによる福音書22章35-38節  ここに記されているのは、最後の晩餐での席での主イエスと弟子たちとの最後の会話です。主イエスがガリラヤで伝道しておられたとき、弟子たちをいろいろなところにお遣わしになりました。弟子たちは、主イエスから何も持たないで行けと言われて、そのみ言葉に従って出かけて行きました。35節「それから、イエスは使徒たちに言われた。『財布も袋も履物も持たせずにあなたがたを遣わしたとき、何か不足したものがあったか』」と、主イエスから言われた弟子たちは、思いがけない伝道の成果が与えられたことを思い出しました。しかし、続いて36節では「イエスは言われた。『しかし今、財布のある者
2023年04月23日 04:59

2023.4.23 宣教「主と共に働く者」

聖書 ルカによる福音書22章24-34節  主イエスの最後の晩餐の席の中で、24節「使徒たちの間に、『自分たちのうちでだれが一番偉いだろうか』という議論が起こった」のです。弟子たちの中に互いに競争意識があったのかもしれません。自分はどう見られているかということですが、根っこには互いに嫉妬があります。そこで主イエスが語られた。31節「シモン、シモン、サタンはあなたがたを小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。」小麦をふるいにかけると、小麦に混ざっている色々なもの、隠れている石ころが出て来て、小麦だけが残ります。ふるい分けられると、そこに本物だけが残る。ここで問われているのは信仰

説教要旨

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